Daily・・・日々雑感

2006.09.30 (sat)
作品集をつくっていって思ったのです。
建築はこの100年「雑誌」という媒体で世に問いかけをしてきました。
ネットの登場で、大きく変わると言われた時期もありましたが、
結局、マスに伝わらないメディアが主流になるわけはなく、
雑誌が主流なのは変わっていません。
結局は、建築は実体であるにも関わらずソレを体験できる人は限られているから、
雑誌にできることの中で、つまり「写真・図面・文章」によって論じられ判断されてきたわけです。
『建築』には社会的意義や、問題提起をする力が、確かにあります。
建築が世の中を誘導することも否定できない事実です。
ただ、この100年間でのそれは「建築そのもの」じゃなくて、
「写真・図面・文章」の三点セットと雑誌が世に問うてきたのですよね。
それでね、思ったんです。
空想の敷地に、空想の建築を考えて、
スターウォーズのように実在しないけどまるでホンモノにしか見えない「建築写真」を作って、
ホンモノ作品に混じって雑誌で発表してしまったら、
・・・・・・それは、この世のどこかにある建築として認知されちゃうのでしょうね。
現在の技術ならそんなに難しいことではないです。
現に映画の世界では、動画でそれをやってのけているのですから。
毎月建築雑誌で発表されていく作品には、
写真映りは幻想的だけど、こりゃぁ20年ももたないで錆びたり腐ったりするだろうなぁという、
「軽く・薄く・白く・透明な」限りなく虚像に近いゲンブツ達が次々に掲載されています。
(技術的解決のなされた、よく出来たものもありますが、そうでないものもたくさんあります)
そしてそれらの作品は、危うければ危ういほど注目され、
社会的な存在意義として認められる。
僕は最近「実在」と「虚像」、「ゲンブツ」と「表現」、
その境目がわからなくなってきていることに戸惑っています。
グローバル化っていうのは結局そういうところへ行き着いちゃうのかなぁ、と
この夏地味に作品集の編集作業に没頭しながら考えていたわけですよ。
観念の建築は、案外しぶとそうだなぁ。

2006.09.29 (fri)
この夏、自分の作品集をまとめたりしていまして、それがようやくほぼ完成しました。
膨大な数の写真から、必要なカットを選び、色補正し、編集レイアウトし、
コンセプトを練り、注釈を書き、そのひとつひとつを納得するまでとことん純化させていく。
つまり、一言でいうと、・・・かなりがんばった、ということです。はい。
この作品集は、いままでお世話になった方に差し上げたり、
(サポートしてくれた監督さんや、苦労してくれた職人さん、いつも気にかけてくださっていた方など)
これからお付き合いすることになりそうな人に、スナガの自己紹介としてお渡ししようと思います。
もし、「それ、欲しい」というかたがいましたらご連絡ください。
一冊作るのもけっこう大変なので大盤振る舞いは出来ませんが、
「興味がある」と言われればあげたくなるのもまた人情です。
10年分の過去を整理できた感じで、いやぁ清々しい!

2006.09.28 (thu)
最近、珍しく勉強しています。
20代は中盤まではよく勉強していましたが、
終盤は情報収集にうんざりして、内なる自分との対話から建築を探そうとしていました。
それはそれで、いくつかの人マネではない作品を産み出せましたから、良かったと思います。
(とはいえ、もっとスゴいものをホントは産み出したいのです。まだまだです)
ここに来てまた勉強し始めたのは、例の本を書いているためです。
本を書くために、本を買い、
本を書くために、本から学んでいる。
出版の世界にもてあそばれているような疑問には気付かないふりをして、
この際だからもうちょっと勉強してみます。
現在の自分は、作り手としての土台の一段目が出来た時期です。
ここでもういちど、世の中の優れた建築達と向き合い、分析し、
食っちゃえるところは、栄養にしちまおうと思います。
今なら、ただのマネにはならない、そういう自信が持てる、
そんな時期にいるみたいです。

2006.09.27 (wed)
「あいつ、そういえばどうしてるかなぁ」
そういう奥行きが、今の時代にはない。
情報が目の前で並んでいる感じ。
インターネットも電話も便利だけど、脅迫的でもある。
さぁ取れ、と言わんばかりに、自分に近い情報が並んでいる。
そして、バカだからつい取ってしまう。
メールソフトも立ち上げていると 新着をつい見てしまう。
いちおう「チェックする」という感覚のつもりなのだが、
じつは人間の本能的なバカが、裏で自動で働いているだけなのではないか。
最近そんなことを思う。
だから、仕事の時は外にパソコンを持ち出して、
ネットも電話も繋がらない喫茶店とかでやっている方がはかどったりする。
悩ましいのは、mixiの日記の新着一覧。
今までDailyではあんまりmixiというコトバを出さないようにしてきたが、
僕もいちおうmixiに、・・・いる。
いちおう言っときますが、
探されたらすぐ見つかっちゃうところにいるので、
ですので、べつに、探してくれなくてもいいです。
「足あと」をつい見てしまう、本能的なバカを抑えられない駄凡な人です。
mixiでは日記は書いてないですし、始めた頃はDailyを転載していましたが、面倒になって今はナーンにもしてません。
コミュニティを検索的に利用しているだけのツマラナイ人です。
mixiでも最近は友人の日記をあまり見なくなりました。
(そんなに近くにいなくてもいいんじゃないか・・・)
なんか、そんな気がしてきましたのです。
ネットには、縁が切れてしまった人と偶然再会する喜びもあります。
しかしながら、毎日動向をチェックするほどまでの近さは必要ないとも思うのです。
(チェックしたくなるオモシロイ人もいるんですが)
テレビを観ないことで精神を自衛したように、
ネットや電話から物理的な距離をとることで、
人間の本能的なバカをコントロールする必要を感じている最近です。

2006.09.26 (tue)
芥川賞は暗いなぁ。
去年受賞した土の中の子供という本を読んだのだが、
暗くてどうもダメだ。
昔読んだ海峡の光も暗かった。
たまたまそのふたつがそうだっただけかもしれないが。
「暗いんだけど希望がある」とか
「暗いんだけど、苦悩の中に人間くささが見える」とかいうのではなく、
「暗くて、くらい」。
確かに、今という時代の空気は感じるのだが、もうちょっとなんかない?
芥川賞の本は、どうも所有していたくない本の部類に入ってしまう気がする。

2006.09.25 (mon)
TOTO通信という起業誌のグループインタビューを受けてきた。
ほぼ無作為抽出の30歳前後の設計屋さん6人。
独立してる人、ゼネコンの人、
みんなそれぞれの場所でがんばっている人たちだったから、
きっとまたどこかで再会することでしょう。
そのときはまたよろしく。

2006.09.24 (sun)
きのうから原因不明の頭痛と、原因不明の鼻水と、原因不明の喉痛と、原因不明のダルさ。
つらくて起きてられないので寝てるしかない。
飽きるほど眠っていいいなんて、夢のよう。
とはいえ、ツライから寝ているのだし、あんまり長く寝てるのも、案外苦痛。
こいつぁ定年退職みたいなものかもしれない。
原因不明の不調だが、症状からいってどうせ風邪なのだ。

2006.09.23 (sat)
コドモが転んだ時、僕は笑う。
「だいじょうぶ?!」とは訊かない。
「いたいねぇ」と同情もしない。
「バカだねぇ、気をつけなよ」とも言わない。
転んだ直後には一瞬の間がある。
僕が先に笑い出す。
「はははは、ゴッチンしちゃったね」
コドモも釣られて笑う。それでおしまい。
でも、よその子が転んだ時に笑うと、それは不謹慎という空気になる。
やはりこの場合は「だいじょうぶ?」が正解ということになっているのだろう。
僕自身が街で転んでも、やっぱり笑う。
「はははは、オレ、転んじゃったよ!」
ごまかす照れ笑いや道化ではなくて、笑い飛ばす。
失敗した時、物事が暗礁に乗り上げた時、運が悪かった時、
泣いたって、落ち込んだって、笑ったって、
「痛みを感じながら、ある一定の時間を過ごす」ことに変わりはない。
建設的なことで対処しようのない、どうにもならないことなら、
笑って飛ばしちゃえばいいのだ。
「はっはははは」

2006.09.22 (fri)
『いま、会いにゆきます』の小説の方を読んだ。
これは、映画版の脚本家もエラかったんだなぁ。
感心しました。
小説の方はあくまで素材扱い。
ネタとして切り刻んで映画用に自分でしっかり料理している。
どうせだったら、小説を読んでから映画を観た方が、より楽しめたかもしれないな。

2006.09.21 (thu)
worksに月の家をアップしました。
リフォームで創り出した、精神性の高い感じの空間です。
平面図も見ていただけると、どんな改築がおこなわれたのかわかると思います。
元々の構造がツーバイフォーでしたのでけっこう大掛りなことをして増築しています。
不思議な多角形の空間は、包み込まれる安心感を伴いながらも、
乾いた距離感のある、なかなかいいものでした。
この空間でスピーカーから音を出すと、
音に均等に包まれ、いったい音源がどこにあるのかわからないような、
不思議な鳴りかたをします。
反射しあいながらも、不整形な多角形面によって、乱に散っていくのでしょう。
とても気持ちの良い体験でした。
例えるなら、森の中で木々のそよぐ音が四方八方から聞こえてくる、
あの自然のサラウンドに近いかもしれません。
そんなことを想像しながら見ていただけると、少し居心地が伝わるかもしれません。

2006.09.20 (wed)
「世の中が今より良くなる!」
・・・ってことは無いだろうな。
首相が交代するってのに、何の希望も抱けない国だというのはやっぱり残念だ。
アメリカがいい国だとはまったく思わないが、
自分の未来を自分で選べる(・・・ような雰囲気がある)、
その点についてはちょっと羨ましい。
テレビはいつも、盛り上がらないのにカラ騒ぎ。
あっ、このコピー↑ちょっといいね。
どっかの政党のポスターにでもならないかな。
「盛り上がらないのにカラ騒ぎ ○○党!」

2006.09.19 (tue)
あそこのチャーシューは、粘土の味がする。
と言ったら、粘土食べたことないからなぁ・・・とつれない返事をされた。
確かに、普通は食べないものな。
コドモの頃持っていたオモチャに床屋さんのオモチャがあって、
人形の胴体に粘土を詰めて、下からトコロテン式に押し上げると、
アタマのツブツブから、スパゲティのように粘土が押し出されてくるというもの。
このオモチャの粘土を口に入れてみたことがあるんだな。
古くなった油のニオイがして、ヒジョーに不快だった。
その舌に刻み込まれた幼児期の記憶が、油の臭いチャーシューを食べると蘇る。
そういうわけで、チャーシューにはうるさい方である。

2006.09.18 (mon)
いま、会いにゆきます という映画を録ってあったので観た。
「雨が降ったら、死んだお母さんが帰ってくる」という設定はもう古典なんだろうけど、
それでもこの手のストーリーには弱いなぁ。泣けるぜチクショウ。
そういや、辻仁成の ミラクルでは雪が降ったらお母さんが帰ってくるという話しだった。
あの本もいい。
さて、「いま、会いにゆきます」、
映像の奥行きに独特の美しさがある映画だなぁと思って見ていたら
エンドロールのクレジットに「美術 種田陽平」とあった。
なるほど。
スワロウテイルや冷静と情熱のあいだを手掛けた人。
その空気感に納得。
美術という役割は映画の世界をこんなにも創り出す力があるんだなぁ。

2006.09.17 (sun)
ダシ汁をゼラチンで固めたような冷えた食べ物、
結婚式場で必ず出てくのだが、あれはナニ?
食べ物に好き嫌いはない方だが、あれだけはどうも苦手である。
自分が食っている物が不明だという不安。
あと、ベトベトしたハム。
こちらは調べてみると「ターキーとフォアグラのテリーヌ」というものだと判明。
刺身、牛フィレ肉のポアレ、エビチリ、寿司・・・。
聖書に愛を誓い、神社で初詣をし、死んだら仏さんになる。
ああ、オレはニッポンに暮らしているのだな。
実感する今日の良き日にカンパイ。

2006.09.16 (sat)
うわぁ、やられた。
三鷹をウロウロしていて、新しいカフェ発見。
カフェの名前が『0422』。
こういうシンプルな名付けの才能には嫉妬しちゃうなぁ。
ちなみに0422というのは武蔵野・三鷹地域の市外局番。
せっかくなので、コーヒーをいただきながらノートパソコンを広げてひと仕事。
無線LANも繋がるし、電源も貸してくれるようだ。
壁の大きなモニターでは映画が流れていて、ペットもOK。
なんだか、とても環境のいい店。
いい店見つけるたびに思うのは、
どうか・・・・・・潰れませんように。

2006.09.15 (fri)
思考を文章化するのは、ホントに骨が折れる。
いったい自分が何を考えているのか、じつは自分でもよくわかっていないのだ。
感覚的なところでのYES or NOは明確にあるのだが、
その理由を説明せよと言われても、困る。
建物の設計コンセプト、7年前に手掛けた住宅のヤツが、
今になって、やっと書けた。
あぁ、あの時オレはこんなことを感じていたんだ、
というのが数年経ってやっと適切なコトバが見つかったりする。
昔っから、プレゼンテーションだとか自己紹介だとか告白は苦手である。

2006.09.14 (thu)
「つくり込む派」と「つくり込まない派」、
さて、スナガはどちらかと言われると、
どちらでもあるような、どちらでもないような・・・。
きのう書いたようなことは、主に僕らよりもひと世代・ふた世代上のことだろう。
では僕たちの世代からは何が生まれてくるのだろうか?
共通して潜在している問題意識はどんなことだろう?
簡単にコトバになるようなことではないはずで、
「なんとなく感じている違和感」が種となり、
地震でプレートが一気にズレを補正しようとするように、
ワッと一気に顕在化することだろう。
若くても表現ができる、音楽・文学・演劇・アート、そういう世界の
まだ売れないけど確かなエネルギーをグツグツさせている人たちと接することで、
僕らの世代が起こすべきことは見えてくるのではないかと思う。

2006.09.13 (wed)
このあいだ見てきた芝居が、オムニバス形式の二人芝居だった。
(作・じんのひろあき メトロポリスプロジェクト再演)
それぞれの話しを独立した短編として見ることもできるし、
短編エピソードが集まって全体のドラマができていると見ることもできる。
数人の役者でやっていて、それぞれがいくつかのエピソードに出演するので、
塾講師の面接を受けに来た男が、別のエピソードでは結婚相談所に
紹介されたのサクラの女と問答をしている。
サクラの女は、別のエピソードでは退屈そうにパジャマ姿で
電話の向こうの見知らぬ男に運命を感じてみようとしている。
役者という顔のある個人を使い、物語を交錯させていくことで、
観客の想像によって複雑な人間ドラマを描かせていく。
エピソードはすでに100編でき上がっているようなので、
すでにその組み合わせは無限とも言えるだろう。
100個の小さな物語から、どれをチョイスするか、どのように並べるか、
そこで結果として発生した偶然性を含めてひとつの演劇として成り立たせる。
まるでブロックパズルのよう。
最近の建築の世界にも、同じような傾向がある。
富弘美術館のように、建築家はあるルールだけを設定し、
その結果として出現する形態、そこで起こる偶然の建築的体験を期待する、放任の表現。
こういう傾向を「つくり込む派、つくり込まない派」という言い方で分けたりもする。
(あまり適切な言葉でもないが、いまのところ良い言葉が見つからない)
従来からの「つくり込む派」は「人間というもの」と真正面から向きあい、作品に濃い世界を描いた。
なんとなく演歌やロックっぽい、人情を取り扱う路線。
それに対して、つくり込まない派のやろうとしていることは、
「モノと仕組み」を徹底的に研究・調合し、化学反応を待つようなスタイル。
音楽に例えるなら、テクノやトランスミュージックのような、現象を取り扱う路線だろうか。
建築も演劇も、どちらが良いとか悪いという話しではなくて、
作品の方向性に、今という時代の空気を感じる。
作り込まない、放任の作品たちは、
「作者の思い入れ」を抜くことで、なにか新しい価値が生まれるのではないかと、
模索しているのではないだろうか。
しかしそれは「人間」を取り扱うことを辞めたのではなく、
まだ人間に潜在している可能性を、開いてみようとしているように思える。

2006.09.12 (tue)
打ち合わせ帰り、国立でカレーを食べようかと思ったが定休日とのことで帰ってきた。
ちなみに、きのうはお昼にインドカレー、夜はささみのフライにレトルトのカレーを掛けて、
おとといの夜もカレーを食べている。
同じメニューが続くのは、まったく苦にならない。
カレーも鍋もおでんも豚汁もラーメンも、毎日でも食える。
凝ってなくてもいい。ちゃんと、美味しいなぁと思いながら食える。
カミさんからは奇異の目で見られるが、男ってそんなもんじゃないですかね?
ちなみに狂牛病が怖いのでレトルトはS&Bにするようにしてます。

2006.09.11 (mon)
朝の家でお会いできました皆さん、暑い中おいでいただきありがとうございました。
これからもコツコツと、建築を密度高く作っていきたいと思います。
このところスナガの作品集を見学会には間に合わせようと
グロッキーになりながら徹夜で作り続けていたので、
作品ファイルに興味を示してたくれた方もいて、報われた思いです。
朝の家、手前味噌でありますが、僕も久しぶりに訪れてみまして、
「わっ、写真でみるよりずっといいじゃん・・・」
と感動して帰ってきました。
嬉しいような、でもちょっと残念なような、妙な気持ちです。
今回の見学会でも小屋裏の部屋が好評でした。
こういうプラスαの空間は得意かもしれません。
建築的に説明するときは「茶室のような・・・」なんて言ったりしますが、
本当はコドモの頃に遊んだヒミツ基地がルーツです。
雑木林の小さなほら穴や、小学校の階段の踊り場の裏にもぐり込んだりした、薄暗い小さな空間。
憧れたハックルベリーフィンの樹上の小屋。
「オレさぁ、3組のトモヨが好きなんだ。誰にも言うなよ」と友達とナイショの話をしていた記憶が、
こういう形で建築化されます。
見学会で「これは・・・、男の隠れ家だねぇ」と渡辺篤史のように喜んでくれたおじさん2人。
(あ、オレもだから3人か)
目の光が少年になっちゃってるのを見ちゃうと、
いくつになってもboyにはヒミツ基地が必要なんだと確信しますな。

2006.09.10 (sun)
いやもう、クタクタのボロ雑巾みたいにバテてしまいまして、
やっとの思いで風呂に入り、床に崩れながら夕飯を食べて、
さあ今日は寝るぞと、這って布団に入ったら、
なんだか、そのままでは寝る気がしない。
「なんか・・・・・・キレイなモノが見たい」
こんな感覚ははじめてのことなのだが、
例えるなら、深夜に小腹が減って甘いものが食べたくなるのと似ているかもしれない。
ココロの小腹が減っちゃった感じ。
となりの部屋に画集を取りに行くほどの気力は残っていなかったので、
手の届くところにあったコドモの絵本の中から、
「giving tree」「おにたのぼうし」「ひとりぼっちの こねこ」「七つの ひしゃくの ものがたり」
を読んだら、なんとなく満たされた感じがしたので、寝る気になった。
仰向けになってゆっくり深く腹式呼吸をしながら、アタマの中が勝手なことを考えはじめてる。
「どこかに、コトバはすべて擬音語という民族っているんじゃないだろうか。
もぐもぐ。っあー、んまっ、んま。(これ食べてごらんよ、すごい甘くて美味しいから)とか」
いつも間にか意識は遠くなっていった。

2006.09.09 (sat)
文章に「!」マークのすごい多い人っているよなぁ。
身の回りで、思い当たります?
他には「・・・」ばっかり多い人もいるなぁ。
ま、それは、自分自身のことなんだけど。
この傾向って何なんでしょうな。
思い起こすと、僕も昔はわりと「!」マーク多かった。
10年前とかかなぁ。
それがいつの間にか、「・・・」が多くなった。
「!」が多いとポジティブで、「・・・」が多いとネガティブな人だ、
とかそんなことを言うつもりは全然ないけど。
自分が「!」を使わなくなった理由は、自分なりにわかっている。
ネットとかメール特有の、日常よりも「躁」な感じ、これがどうもダメで。
確かに対面しないコミュニケーションには誤解がつきものなので、つい愛想よくなりがちになる。
ただある日思った「あ、オレ キモチワルイわ」
あと顔文字、あれも使わないなぁ。
でも、あれはいいと思う。
韓国人の友達と英文メールでやり取りしていた時に、お互いに英語はカタコトなので、
向こうが文中に笑った顔のマークとかを入れておいてくれると、
そのおかげでニュアンスもちゃんと伝わるので、
そのときに「これは新しい象形文字なんだ!」といたく感動した。
コトバもメールも道具よね。
道具が自由自在に使えるってのは、なんにせよ良いことですな。
顔文字、覚えようかな。
どっかのカルチャースクールで、「詩吟教室」の隣で「顔文字教室」とかやってたりしないかなぁ。

2006.09.08 (fri)
もし人間の指が6本だったら、数学はきっと12進法で、
そうすると宇宙の神秘が案外あっさり解けたりするのかもしれない。
時々、そんなことを想像してみたりする。
話は変わって建築を作っている時、その寸法は無意識のうちにキリのいい数字になっている。
天井の高さは2m40cm、スイッチの高さは90cm、机の奥行きは60cm、鴨居の厚さは30mm・・・。
メートルという単位は地球のサイズから割り出されてきた寸法。北極から赤道まで1万km。
もし長さの単位がメートルとまったく違うものだったら、
世の中のモノたちはそれぞれどんな大きさどんな形になっていただろう?
想像してみるだけで、ちょっとワクワクする。
メートルが星の単位なら、尺とかフィートが人の単位。
1尺は30.3cm、1フィートは30.48cm、どちらも人間の歩幅が基準だと言われている。
人の身体から発生した寸法。
もしもプロダクトデザインの現場も尺で設計をしていたら、
モノや機械が今よりなんとなーく人なつっこくなるんじゃないだろうか。
電話機、自動車、パソコン、包丁、書籍、
もちろん今でもミリ単位の設計が行なわれているはずだけど、
星の大きさから割り出された「1ミリ」と「1/300尺」では、
その違いはハッキリとはわからなくても、
なんとなく馴染みの良いモノが出来たりしない・・・かな?
建築の方では、尺はいまだに生きている。
合板やボード類の大きさは1枚が910x1820mm、3尺の6尺。
これは畳一帖の大きさ。人は立って半畳、寝て一帖。
設計する時、普通はメートル法でしているのだけど、
それでもいつの間にか尺にとらわれていく。
不思議なことに建築は、自由に作ったつもりでも、
後から測ってみると大抵3の倍数で出来ている。
ちょっと身の回りのモノを測ってみてくださいな。
1尺は30.3cm、1寸は3cm。
よく日本人は数字の『3』好きと言われるけど、
実はそれは長島さんの影響ではなくて、
日常生活の中 無意識のうちに尺とメートルをつなぐ数字が
日本人のアタマにはついチラついてしまうってことなんじゃないだろうか。

2006.09.07 (thu)
死ぬというのは、まだ遠い世界のことのように感じている。
交通事故で痛い思いをしたり、
病気で体が蝕まれ苦しんだり、
飢餓で虚ろな涙を流したり、
そんな死に方はいやだなぁ。安らかに眠りたい。
安らかに、普通に。
人間は野生の世界から離れ、安楽な死が当たり前になった。
・・・かのような気がしていたけど、
でも、死ぬときだけは大多数の人が、
痛かったり、苦しかったり、怖かったり、
その絶頂を感じながら死ぬんだなぁ・・・。
そうか、安らかに死ねるわけがない。
どんな動物も、死ぬときはやっぱりキツいんだ。
動物は喋れないし、死人も喋らないから、
なんとなく、おおむね安らかに死ねるんじゃないかという気がしていたけど、
冗談みたいな記事を見て、僕の考えは案外マジメなところへ着地した。
自分でもビックリだ。

2006.09.06 (wed)
あの物語はテレビだったのか本だったのか、
詳しいことは何も覚えていないのだが、
妙に記憶に残っている話しがある。こんな、短いはなし。
いつものようにお母さんが夕飯を作ってくれて、
家族みんなでちゃぶ台囲んで、
じゃぁ、いただきますというところで、
お母さんは「あら、ちょっと買い物いってくるわね。先に食べてて」と言って近所に買い物に出掛けた。
なんかが足りなかったんだな。納豆のネギとかそんなようなもの。
しかし不運なことに、お母さんはそこで交通事故にあってしまう。
家族みんなで病院に駆けつけると、お母さんはもう死んでいた。
そして、お父さんと子供たちが病院から家に帰ると、
ちゃぶ台には夕飯の料理がさっきと変わらず並んでいる。
「カァちゃんの作ってくれたご飯だぞ」
それをみんなで泣きながら食うラストシーン。
なんだったろう?この物語。
さっきまでの幸せな日常といつもの母ちゃんの晩ご飯が、
残された最後の手料理という象徴的なものになってしまう、切ないタイムマシーン。
なにかの実話なのか創作の物語だったのか、その記憶すらあやふやなのに、
グジャグジャの涙と洟をこらえながら黙ってメシを食うシーンが強く印象に残っている。
今晩はカミさんが出掛けている。
作り置きしてくれていた夕飯をコドモに食べさせながら、静かな夜。
こういうシュチュエーションのとき、いつもあの物語を思い出す。

2006.09.05 (tue)
CONFORT(コンフォルト)という雑誌の引戸特集で、
朝の家で試みた戸の引手や和室の障子、 居場所の家の5枚連結の引戸が紹介されています。
本屋さんに立ち寄る機会がありましたら見てみてください。
他の建築家の方々の工夫を凝らしたディテールも満載で、
特に建築やってる人にとってはかなり「買い」の本です。
しかし毎度思うのですが、ついマネしたくなるナイスなアイデアも、
簡単にパクってしまったら恥。
作家たるもの、自分自身の問題意識の中から育った、創造の芽でなくては。
それにしても皆さんのディテール、いやぁ参考になるなぁ。
やってみたい衝動に駆られて、こりゃ自制するのが大変じゃ。

2006.09.04 (mon)
朝の家の見学会をまたやります。
今回はウィークエンドホームズ社さんの企画なのですが、
当日は僕も立会うことになりますので、
どうせなら・・・ということで。
ウィークエンドホームズ社さんが終わってからの14時以降で、
建て主さんからお時間をいただきました。
前回見逃したぁというかた、この機会にどうぞ

2006.09.03 (sun)
夕方、ひと休みしようかとダイニングに腰を降ろすと、
開けていた玄関の隙間から一筋の光が射していた。
「あ、きれいだなぁ・・・」
理屈じゃないんだなぁ。
ウチのゴチャゴチャした玄関にも関わらず、
ハッとするほど美しい光が入っている。
「美」はどこにでもあるもの。
それを見つけてあげられるかどうか、人サイドの問題。
僕らの仕事はいつもそれをわかりやすい形で提示してしまうけど、
余計なこと、しなくていいのかもしれないなぁ。
こんな、普通に美しい光を見ていると、そんなことを思ったりするのです。

2006.09.02 (sat)
シドニーのオペラハウスがどんだけメディアに露出していても、
あれ、設計者には一銭のお金もいってない。
音楽なら、
自分のレコーディングした作品がテレビやラジオで流れるたび、
カラオケで歌われるたび、印税が入ってくる。
一曲しか売れなかった歌手でも、その一曲が世に与えた影響が大きければ、
それに見合っただけのものが入る。
ところが建築家は一発屋だと食っていけないんですな。
例えばオペラハウスの作者ヨーンウッツォン、
オーストラリアと言えば思い浮かぶのはマーライオンかオペラハウスなわけで、
それくらい象徴的なものを建ててるってのに、
オペラハウスが写真集の表紙を飾ろうが、
観光案内のパンフレットになろうが、写真集に収められようが、
印税なんてモノは無いわけです。
建築家の収入は基本的にクライアントからの設計料のみ。
しかし、その建築を写真家が印象的な一枚に撮り収め、それがあちこちで使われれば、
写真家の方は著作権に守られ、印税やら写真の使用料やらギャラが出る。
なんか、おかしい・・・でしょ?
産み出した建築家は作っておしまい。でも建築を二次利用してる写真家の方は守られてる。
あんなに影響絶大なものを作ったのに、ね。
ヨーンウッツォンってオペラハウス以外の建築作品をほとんど聞かない
(ゼロじゃないんだろうけど)ので、
もしかすると、日々住宅の設計したり講演したり学生に教えたりして、地道に食っていってるのかもしれない。
建築家ってやつは何にも守られていない、作業労働者と変わらない職業なんだなぁ。
ヨーンウッツォンの一発には、
モンキーズのデイドリームビリーバーくらいの価値はあったと思うのだが。
(あ、マーライオンはシンガポールだったわ)

2006.09.01 (fri)
夜中に3時間格闘した末、5分で解決・・・。
これだから、コンピューターって嫌い。
せっかくなので、どこかの誰かの役でも立てばと思って書いときます。
AirMacの調子が悪い。
iBook側からは問題なく使えているのだが、Dellのノートからだと無線で印刷ができなくなってしまった。
おそらくおこれは、win側のプリンタ設定の問題。
既存のやつを消去して、AirMacの説明書に従い「プリンタの追加」をしてみるも、
ポートの「10.0.1.1」がすでにあるので作成できない、となってしまう。
プリンタのプロパティから辿ってポートを消去してみても、そこから先がうまく進めない。
そういや、以前設定したときも、説明書通りに設定すると何遍やってもダメで、
サポートに電話してようやく解決したことがあった。
「プリンタを選択する際、必ずヒューレットパッカードのなんちゃらを選択してください・・・」
そんなことは説明書には一言も記載されていなく、
(ウチのプリンタはエプソンだがそれでもヒューレットパッカードを選択するのだと)
問題は、win設定用の説明書がそもそも間違っていることだった。
さーて、あのときはどうやったんだっけなー?
思い出しながら苦闘すること3時間。でも結局拉致が開かない。
購入後90日を過ぎているのでサポートも受けられないので自力で調べるしかない。
winでAirMacを使っている人も少ないみたいで、netで調べても情報が少なく、
深夜に漂流するパソコン難民。
ま、そんなこんなで結局、どう解決したのかといえば、
appleの「Bonjour for Windows」、コイツをダウンロードしてインストール。
すると、コイツが自動的に無線ネットワークからAirMacを探し出してくれて、
あっという間に一件落着。
3時間トライ&エラーを繰り返したあげくの、あっけない5分解決。
コンピューターほど、努力の積み重ねが報われない世界は無いわな。
こういう手応えの無い、階段でマボロシの一段を踏込んだ時みたいなヘコッって感じ、
精神衛生上よくないですな。
コンピューター業界の方々、なんだかなぁな日が続く夏のお終わりですが、
どうぞ心を壊してしまわぬようご自愛くださいませ。

さて、8月のDailyはこちらか、
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