Daily・・・日々雑感

2006.04.30 (sun)
偶然オヤジのスキー靴が履けたので、板を借りて8年ぶりのスキー。
腰の引けたみっともないボーゲン。
生後半年で冬山に連れて行かれて以来18年間は欠かさずスキーに行っていた人とは思えないみっともなさ。
一年生からやり直しです。
でもま、数本滑るうちに体が思い出してくれて、
ウェーデルンのできそこないくらいまでは回復。
ヘタになったと思うとひどくもどかしいが、
「ぉお!急激にウマくなっていく、オレ」
と思えばこんなに楽しいことはない。

2006.04.29 (sat)
明日から旅行。
ジイジとバアバの春スキーに便乗してみんなで白馬へ。
朝5時に迎えに来てくれることになっている。
ただいま25時。そういや昨日も徹夜だったな。
連休前に片付けたい仕事が山積みなのは仕方ないにしても、
なぜか毎回、旅行直前に限ってアクシデントがある。
そういう星のもとに生まれたのだと、あきらめるかな。

2006.04.28 (fri)
ここ数年ズーッと考えてきたことの答えがおぼろげながら見えてきた。
survival designの未来、10年〜50年の計。
「ひとつひとつをコツコツと、雑用も自分でやりながら作っていきたい」という自分の性格と、
「50歳60歳になってまで夜中まで図面描くような生活はムリがあるしなぁ」という肉体と経済の問題。
今はまだ自分一人+カミさんのヘルプでなんとかやっているけど、
いつまでもそういうわけにもいかない。
事務所としてスタッフ・所員の存在がきっと欠かせなくなってくる。
いい建築を作ることはもちろん大切だが、それと同じくらい「たくさん作る」ってことも意義あること。
しかし、人の手が入ることで作品の質が薄くなるのは避けたいし、
どうでもいい雑用の中からの小さな発見のひとつひとつが大切だという気もしているので、
自分が管理役に廻るのは絶対にイヤ。棺桶にハマるまで現役続行予定。
捕らぬ狸の皮算用だと言われながら、そんな問題をここ数年考えていた。
それが、ある日突然ビジョンが見えたのですよ。
最終的にどういう体制にもっていけばウマいのか。
そのために、さしあたって何をしていけば良いか。
ま、そこを説明し始めると時間が掛かるので書きませんが。
さて、さしずめ必要なのは、優秀なスタッフと広い事務所
・・・ではなくって、
コンスタントに仕事が来てくれるってことだな。

2006.04.27 (thu)
ターリ→おすわり
ジャンバイ→万歳
カンパンチ→乾杯
キンタマクワ→枕
ネメギ→メガネ
「ネメギ、おとーたんネメギして」(と、メガネを持ってくる)
「メガネ?はい、ありがとう。メガネつけたよ。
ところでさぁ、ぼうちゃん、コレなんだっけ?(メガネを指さして)ネメギだったよねぇ?」
「ネメギちあーうよ!、ネ・メ・ギ!!」
「・・・・・・。」

2006.04.26 (wed)
建築の設計は、お客さんから「思っていたのと違う」と言われてしまえば、それまでである。
世間では説明責任だとかいう言葉があるが、
なぜ間取りがこんなカタチになったのか、なぜ3650ミリでなく3640ミリなのか、
世の中に星の数ほどある建材の中から、なぜこの材料を選んだか、
そんなことをぜんぶ説明しようと思ったらそれだけで3ヶ月間はノンストップで喋れる。
設計という作業は、無限とも思える要素とその組み合わせを、
実際には『勘』を働かせて取捨選択していくことが多い。
そりゃ、説明しろと言われれば、勘がそう働いたのには理由が確かにあったはずだから、
一生懸命筋道を立てて言語化・論理化を試みれば、説明できるはずだけれど、
むしろ「説明なんかできない」と投げてしまった方がずっと正しいような気がする。
説明責任というのは、信用なんかしていない関係のためにあるのだろう。
しかも、前もってどんなに懇切丁寧に説明していたって、解ってもらえるかどうかは別問題。
「そういう意味だとは受け取ってなかった」と言われてしまえば、その説明すら意味をなさなくなってしまう。
もう、信用してもらえなければどうにもならない仕事。
後から難癖つけようと思えばどうにでもなってしまう。
スキだらけのノーガードの設計屋。
先日、お医者さんと話しをしていて、お互い似たような無理を抱えた仕事なのだと感じた。
僕らの仕事は、「説明なんかできない。私を信用するか、しないか、です」
と言い切ってしまった方が良いのかもしれないなぁ。
傲慢に思われてしまうのは残念だがそれも覚悟で。
幸か不幸か、ウチに来る依頼者は多くないので救われている方なのだろう。
その点、不特定多数・来るものを拒めないお医者さんの苦労は、
推して計り知れない。

2006.04.25 (tue)
以前にも書いたことがあるけど、僕の場合は
内側から湧き上がる猛烈な「イヤだ!」が、活動の原動力となっていることが多い。
その説明を始めると長くなるので今回は書かないことにして、
今日お会いした、僕らと歳の近いご夫婦の言葉の中に
「・・・カレはネガティブエンジン積んでるから・・・」というのがあった。
『ネガティブ エンジン』
ウマいことを言うなぁ・・・。
まさにソレですよ、ワタシも。
ネットで検索してもそんなに出てこないから、造語なのだろう。
そう、体の内側に湧き上がってくる悪いものを燃やして走るんです。
「悪いものを燃やして」なんてさぞ清々しいものかといえば、そんなことはない。
悪いものはどんどん湧いてくるけど、走るのは疲れるのでそうしょっちゅう走りたくない。
ガマンの限界まで悪いものを体に溜めていく。
そういうエンジンですな。

2006.04.24 (mon)
先日オープンハウスに行って実感したのが、
似たような条件の敷地でも設計者によって答えの出し方がまるで違うということ。
例えば周囲を隣家に囲まれた狭小地。
僕はどうも狭いところが本能的に嫌いで、
閉所恐怖症の気がある。
よく、修学旅行で枕投げをしているうちに、
誰かに布団をかぶせてその上にみんな乗っかって押さえ込むなんて遊びをするけれど、
(いじめではなくても)あれが大嫌いで発狂しそうになる。
同様に柔道の抑え込みも嫌い。
地下鉄もなんとなく苦手である。
そんな理由からか、僕が設計する場合は無意識のうちに、
動かせない壁はあまり作らず、部屋を細かく仕切らないようにし、
空間は流動的で、開放的な外界となんとか接続させようと試みている。
それに対して、先日見せてもらったオープンハウスは、
随所に坪庭が仕掛けられ狭い空間をいくつも連続させることで
逆に心理的奥行きをつくっていく料亭のような住宅。
その巧みさに、「ウマいなぁ・・・」と心底感心するのだけれど、
僕には・・・たぶんできない。
住宅を設計する時に、どうしても自分が住む人の気で作っているので、
『気持ち良い住まい』とは言っても「気持ちよい」の基準が人それぞれ違うように、
設計者の感覚がモロに反映される。
茶室のようにポンと小さい空間は好きだけれど、
ぜんぶが狭いのはちょっとキツイ・・・。

2006.04.23 (sun)
ある日ブラッと寄った本屋の写真集コーナーで
一冊の青い写真集が目にとまった。
なんでだろう?
気になってしまう理由を自分でもよく見つけられずに、
他のいくつもの写真集をパラパラっとめくっては、
青い本を手に取り、
また他の写真集を見ては、青い本に帰ってくる。
食べ終わったラーメンのスープを、塩分が体には良くないと知りながら、
ついつい、何度もすすってしまうあの感じと似ている。
この写真集がなぜ気になるのか、結局自分でもよく理由がわからないまま、
何度も手に取り、名前だけメモして買わずに帰った。
狂った季節とハゲたサル/保坂彩樹
帰ってネットで調べてみると、ちょうど写真展をやっているとのことで行ってきた。
特徴を簡潔に言い表すのが難しいのだが、
キレイでも、ステキでも、笑顔でも、カジュアルでも、ヘタウマでも、
メッセージでも、問題提起でも、悲壮感でも、自己顕示でも、汗でも、
懐かしさでも、目の付けどころでも、オモシロさでもない写真。
そこに写っているのは、どれも今の時代のよくある馴染みの風景で、
被写体に特徴を持たせているわけではないのに、どういうわけか目が止まる。
写真家の『見方』なのか『見せ方』なのか、よくわからないけど、
その写真からなにかを感じる。
強いて言うとするなら、「思い」だろうか。
それがどんな思いなのかそれはわからないけど、
耳を澄まして良く見ると、写真の一枚一枚が何かを言いたがっているような気がする。
「なーに?どうしたの?」と、こちらが問いかけてしまいたくなるような、
わかったようなわからないような写真。
書店に積まれている多くの写真集は、
わかりやすく十二分なお腹いっぱいの説明してくれるものだから、
「はいっ。わかりましたっ」と渡辺篤史の気持ちで、本を棚に戻してしまいたくなる中で、
『狂った季節・・・』の方は、
作意が鼻につかず、提示が正直だったのかもしれない。
ところで、この作品達のタイトル、
「狂った季節」とは環境も社会も歪んでしまった現代のことを指し、
「ハゲたサル」とはそれをもたらした進化した人類を指し、
それを皮肉った言い回しにしたのだそうだ。
なるほどね。
・・・ワタシの脳には、ボソボソ毛の抜けた日本猿がウキャウキャ跳ね回っている
額面通りの絵が浮かんでいたもんだから
「・・・ところで、サルの写真はどこにあるんですか?」と聞いてしまう寸前のところだった。
アブナイ、アブナイ。
あまりの自分の鈍さに脱帽である。

2006.04.22 (sat)
赤黒く暗い空間が、どうしてこんなに落ち着くのだろう。
細胞のひとつひとつに埋込まれた遺伝子の記憶が呼び起こされるような、
遠く遠くの時間へとさかのぼっていくような体験。
目を開けていても、何も見ていない。
赤く包まれた中に身を置き、ただ赤い壁と繋がっている状態を感じる。
あの時感じたことを思い出しながら書いているうちに、
あの赤黒い壁は胎盤なのではないかという気がしてきた。
なんだかあまりにも奇麗なオチで気に食わないのだが、ま、それは置いておいて、
川村記念美術館のロスコ ルーム(マーク ロスコの部屋)、お薦めです。
平日の誰も人のいない時間にどうぞ行ってみてください。
「美術と建築の境目」という考えたい課題も湧いてきた。

2006.04.21 (fri)
「仏壇を置く場所、ぜんぜん考えてなかったですよね」
9ヶ月ぶりに伺った居場所の家には、その主役が不在となっていた。
実はこの家は、ある日癌を宣告された
定年間近のお父さんのためのリフォームだった。
最初の設計依頼の電話で言われたのが、
「医師の診断では余命は2・3ヶ月。
旅や芸術や哲学が好きな父のために、急遽家を居心地よくつくり替えたい」
ということだった。
翌日すぐ会いにいき、週明けから解体工事という強行。
設計も案もないまま、解体してしまって着工。
工事をしながら設計するという進め方。
なにせ、人の命がかかっている。工期は一日でも短く。
しかし、お父さんにとっての最後の居場所。でき上がるその空間に対しての責任は重大。
こうして真剣勝負の甲斐あって、1ヶ月半で完成したリフォームには
お父さんもご家族も喜んでくれていたようだった。
それから5ヶ月後、お父さんはこの世を去った。
家族も設計者も施工者も一丸となった、お父さんのためのリフォーム。
そして今、その主役はもういない。
入れ替わりに、少し大きめのお仏壇。
お父さんが一日でも長く、充実した生を送るための家を作っているときに、
仏壇を置くスペースを用意しておくことなど、誰も思いつきもしなかった。
いま御仏壇は、お父さんの蔵書が納まった大きな本棚の前に鎮座している。
定位置と呼ぶにはきまりの悪い、中途半端で妙な位置。
本当なら仏壇スペースのことには設計者である僕が気付くべきだったのかもしれないけど、
でも、むしろ気付かなかくて良かったような気がする。
あの家は、お父さんが生きるための家。
それだけのためにみんなが全力でいられた、そのことが誇りに思える。
お父さんの居場所の家。
みんなのその思いは、今もこれからもきっと、ずっとずっとこの空間に残っていく。

2006.04.20 (thu)
久々の友人と千葉で飲んで、津田沼までで電車が終わり、
つまり、終電を逃してしまった。
「たまにはサウナも悪くないね♪」なんて話しになって、夜の街へ。
ウキウキ気分になれる健康ランドみたいなサウナに泊りたかったのだが、
津田沼にあった唯一のサウナが、寂れたカビ臭い、疲れたオヤジの吹き溜まりみたいなサウナ。
ガックリ・・・。
ロビーを見ただけで引き返して、
結局、一緒にいた友人宅へ泊めてもらうことにして、タクシーで平井まで。
僕は友人宅に泊めてもらい、小旅行気分で楽しかったのだが、
友人の方は、夜中にいつもの自宅に帰り着いただけ。
しかも割り勘とはいえタクシー代までかけて。
尻すぼまりでショボンな結末だったろうな。
その気持ち、わかるわぁ。
自宅なんて、金払ってまで帰りたいなんて、それほどのもんじゃないものね。

2006.04.19 (wed)
ウチ、家中の照明いつもつけっぱなし。
だって狭いから。
僕だって「人のいない部屋は電気を消すように」そう躾けられてきたけど、
でも今は電気つけっぱなし。
都市部の住宅事情は悪い。とにかく狭い。
物理的な狭さを、心理的な狭さにしてしまわないように、
空間に奥行きを出すために、わざとつけっぱなし。
電気代よりも坪単価の方がずっとずっと高い。
『勿体ない』の基準の違い。
心理的に閉塞感を味わってまでの省エネというのも賛成しかねる。
それなら蛍光灯の電球に替えて、消費電力1/5の方を選ぶ。
そういう基準で、ウチはやってます。

2006.04.18 (tue)
初めてオマルでウンチができるようになったようで、
だから今日はウンチ記念日。
ウチのコドモ、たまたまオムツを履いていない時にもよおしたみたいで、
もう先っぽが3cmほど見えている状態で
ワーワー言うカミさんに抱えられて、トイレのオマルへ急行。
先頭に続いて滞りなく2両目3両目がトンネルからズルズルっと。
無事、初めてのオマル成功です。
反則っぽい気もするけど・・・。

2006.04.17 (mon)
伝えたいこと、と
伝わっちゃうこと、のズレ。
『表現』ってものには、いつもそれがついて廻る。
そのズレを補正・・・ではなくて、
別のものに置き換えてしまうことで、
むしろ本質を伝達できる場合がある。
外国語の翻訳に例えると、少しわかりやすいかもしれない。
つまり、直訳でなくて意訳が必要だということ。
原文に忠実であることは、伝達としてけして正確とはいえず、
むしろ原文には全く存在しない表現を用いたり、
勇気をもってバッサリ言葉をカットすることでこそ、
ようやっとその本質が伝わったりする。
例えば恋愛の真っただ中で浮かれているその感じを音楽で表現することも、
海の底知れない深さを秘めた美しさを絵として表現するときも、
食べた料理のその素晴らしさを文章として表現するときも、
そのまんまの直訳でうったえてみても、
実際に感じていた「あの感じ」は伝わらないだろう。
表現のウマいヘタもある。
表現には強さもある。
相手の想像力にゆだねる、間(ま)のとり方もある。
いずれにせよ、
伝えたかったことが100%きれいに相手に伝わる奇跡などまずないだろうけれど、
そのズレを埋める作業の中に、表現は産み出される。
近からず、遠からず、そして新しい魅力が秘めて。
「伝えたいことを表現する」それは単純そうだが、気が遠くなるほど難しい。
でもそれだからこそ、大のオトナが本気になって一生を費やしてしまうのだろう。

2006.04.16 (sun)
夕方から頭痛がしてきたので、
ダラダラすることにした。
布団に寝っ転がってダラダラと本を読む。
森山大道という写真家の自伝『犬の記憶』。
名前はよく目にしていたんだけど、
いままで写真を見たことがなかった。
へぇ、こういう人なんだ。
こりゃすげーや。
すんごい汗臭い写真。
こんなに強烈な写真を撮る人は、
人格もダンプカーみたいな強烈さなのかと思いきや、
けっこう普通の若者だったのね。
なんだか元気が出てきたよ。

2006.04.15 (sat)
かつて、いつも自分の外側にあるものばかりを追っていた時期があった。
建築の世界にいながら、大学を出ていないというのは(入ってもいない)
屁でもないさと思っていたけど、
もしかしたら心のどこかではコンプレックスとなっていたのかもしれない。
とにかく情報を吸収しようと、本を読みあさり、
建築家の講演会に通い、セミナーに参加し、
難しい建築言語を操る人々に、なんとか自分も追いつかなくてはという焦りから、
とにかく何でも吸収・理解をしようと努めた。
でもそれは、追いかけることで、追いつめられていくことでもあった。
ジュンク堂の立ちはだかる膨大な建築書の壁を前にするたび、
開いてみるどの本にも自分の知らないことが書かれているし、
建築雑誌を見れば自分の理解を超えた最新の建築が、
理解不能な建築言語とともに毎月更新されていく。
追いかけているものの巨大さと、そいつの逃げていく早さに、
毎回打ちのめされ、ガックリうなだれ重ーい気持ちで本屋を跡にしていた。
それが、いつの頃からか、追いかけるようなことをしなくなった。
自分に自信が持てたわけでもないし、もちろん追いつけたわけでもないのだが、
『あきらめたと』いうことではなく、『少しわかった』のだ。自分を。
少年の頃から建築を志した人々と違って、
僕がスタートラインに立ったのは遅かったが、
それまでの間をボンヤリ過ごしてきたわけでもない。
確実に蓄積してきた『なにか』を僕も持っていて、
また意外にもそれを面白がってくれる人が、
真っ当な建築教育を受けてきた人の中にもいるのがわかってきた。
そんなことで、自分に無いものを無理に追いかけ情報の洪水に惑わされ
自分の現在位置を見失うくらいなら、
自分自信の無意識との対話を繰り返す中で、
純粋なものを産み出したいと思うようになった。
結局、自分のできることしかできない。
でも、自分ならできることってのがありそう。
建築を複雑な言葉で理解することは苦手だけれども、
絵本のようなものとして琴線でその温度や肌触りを感じ取るのは
けっこう得意かもしれない。
自分の外側にあるものを気にせず、
自分の内側にしっかり向かおう。
そう考えるようになったら建築がラクになった。
「無いものを見ないで、あるものをちゃんと見る」ということ。
そしていま現在は、また次の段階に入ろうとしているような気がする。
色んな人がそれぞれ色んなことを考えて、
それをカタチにしようとし、
その結果を様々に評価する人がいる。
そのことをオモシロイと感じられるようになってきた。
膨大で理解不能であること、それが楽しい。
気負いはぜーんぜんない。
まだまだ建築の世界で遊んでいけそうである

2006.04.14 (fri)
アスプルンド展を見てきた。
友人に誘われなければ行かなかったと思う。
ぜんぜん気にしてなかった建築家なのだけど、
コレが、いやぁ良かった。
創造って夢を見る力のことだなぁ。
人の心の敏感で脆い部分を、注意深く、踏み込まず、
押し付けず、突き放さず、
でも、寄り添い・包む。
深く残る絵本のような、情緒の建築だった。
こういうふうに自分も作れたら、素直にそう思えた。

2006.04.13 (thu)
常識の危うい、なにかがズレてしまっている人なのだと思った。
ある集まりで初めて会った人。
たまたま帰りが同じ方角だったので、必然的に同じ電車で帰ることになった。
何も話しをしないのも不自然だし感じも悪いので、
当たり障りのない世間話をしていたのだけど、
電車は満員だというのに、彼の声がやたらにデカイ。
そしてまたよく笑う。
ある程度一定の常識のある人なら、
騒がしい居酒屋と、満員の電車とでは、当然声のトーンが変わる。
それくらいのことは考えずとも自然にそうなるものだと思うのだけど、
彼の声と高らかな笑い声は、この至近距離の満員電車では明らかにおかしく、
それはどこかコミニュケーション能力や精神的な欠陥さえ感じさせるもので、
僕は周囲の目を気にして冷や冷やしながら、
(早く駅に着かないかなぁ・・・)と、
彼がこれ以上もう笑ったり語り出したりせず、
とにかく話しがおとなしく収束してくれるよう祈りながら、
愛想笑いを浮かべているしかなかった。
そんな初対面のあと、彼とは何度か一緒に帰る機会があった。
毎回、ちょっと困ったなぁと思いながら時間をやり過ごしていたのだが、
そんなふうに少しずつ世間話をしているうちに、
彼には奥さんも子供もいてちゃんと仕事もしていて、
何の問題もない社会生活を送っているいることがわかってきた。
様々な話しの内容から総合的に判断しても、
彼はけして精神的に危ういわけではなかった。
ただ単に、声がデカかっただけだった。
・・・と、ここまで書いてみて、どうまとめたら良いか自分でもわからないので、
大したオチも教訓もないまま、エイヤッと、このまま終わっちゃうことにする。
そんなこともあるよねぇ、というお話でした。
エイヤッ!

2006.04.12 (wed)
beatlesもzeppelinも1枚目のアルバムからとんでもないものを出してきた。
建築ばかりが「50代から」なんて言われているけど、
それは絶対違うと思うよ。
今日訪ねてきた友人に、そんなことを言っておいた。
彼はただいま自身の第一作目を設計中。
ははは。死ぬほどやってください。
完成度の問題ではなくてね。
感性とエネルギーの爆発具合のことです。
もちろんこういう話しのときは、自分のことは棚に上げて言ってます。

2006.04.11 (tue)
『一秒』って概念は、江戸時代には無かったんだろうな。
「一刻も早く、人工呼吸を」の
『一刻』っていうのは、
もちろん「とにかく早く」っていう意味として現代まで残ってきた言葉なんだろうけど、
その『一刻』を現代的表現で換算してみると約30分に相当するのだそうだ。
なんだかずいぶんノンビリしてたんだな。
似たような種類の言葉で『一瞬』という言い回しは、
「瞬く間」まばたきをする間くらいの短い時間、という意味だと思うけど、
「一瞬でも早く殿に報告をしなくては」なんて日本語は時代劇でも落語でも耳にすることはない。
でも、現代人は「一秒でも早く家に帰りたい」なんてことを日常的に言うものね。
「一分でも多く寝ていたい」なんてことも普通に使うなぁ。
カチカチ秒針が動く時計なんてモノを見たことも無い時代の人たちは、
「秒」も「分」も、そこまで短い時間を意識したことも、認識する必要もなかったんだろうな。
もしいま自分自身の中から、「秒」とか「分」なんていう感覚をスッと抜き去っちゃって、
そんなもの知らない自分になれたら・・・。
きっとスッキリ穏やかに暮らせそうな気がするなぁ。
知らないって、羨ましいや。
獣を追っかけて、魚を捕まえて生活していた人たちの感覚が「真っ白い画用紙」だとして、
江戸時代の人たちの暮らしの感覚が「1cmマスの工作用紙」だとしたら、
今の自分は「1ミリ刻みの方眼紙」の上で日々の暮らしをしているような気がする。
メシ食って、眠って、メシを食うための働きをして、メシ食って、眠って、メシを食うための・・・。
人間のしてることなんて「死なないために生きてる」ってだけなのに、
いつの時代もその白い紙に描く線は大して変わりはしないのに。
なんなんでしょう?
補助線がたくさん見えるってだけで、こんなにも煩わしく不自由を感じるってのは。

2006.04.10 (mon)
ブログって、30年後にも今と同じような賑わいをしているだろうか?
ブームで終わるか文化になれるか、どうなんでしょうね。
今はモノ珍しさ・新しさで流行っているのは間違いないにしても、
人の根源的なところにあるコミュニケーションへの欲求をカバーもしてるからなぁ。
小説家でも文筆業でもない一般人が、
仕事でも義務でもなく、どこかの誰かに向かって言葉を投げて、
あるかないかもわからない反応をなんとなく待っている。
そういうことが、どれくらい定着するのか、
どこまで我慢できて、どこまで求めたいのか。
人間という動物の性質の一面を、
ブログってやつの成り行きを通して、
すごくわかりやすいカタチで結果が見れそうだなぁと、
なんとなく考えていたのです。

2006.04.09 (sun)
岡本太郎の『自分の中に毒を持て』という本を読んでいて、
彼の主張には概ね納得できるのだけど、
結婚生活と子育てのあり方についての主張が書かれた章については、
どうも、寒くて痛い。
「僕は結婚をしなかったけど同棲はたくさんしてきたから・・・」
「僕には子供がいないけど自分と親との関係を振り返れば・・・」
実体験の無いことを、類似の体験から推察しての主張というのは、
読んでいてツライ。
岡本太郎が凄い芸術家だということも、実は正しき常識人だということも知ってるつもりだけど、
結婚と子育てについては、平凡な一般人スナガゴウの方は実体験でもってただいま格闘中である。
岡本太郎より、オレのが上よ。(親父よか下だけど)
やっぱり、身の丈以上のことは書いちゃいけないんだろうな。
読んでて恥ずかしいもの。
中学生に「人生っていうのはさぁ・・・」って語られてもキツイのと同じね。
ま、それと同じようなことワタシ、自分でもやってるなぁと思います。はい。
いつでも主観と客観を行ったり来たりしながら、
あんまり恥ずかしくないようにやっていかなくては、
と、尊敬する岡本太郎先生の切ない失態を読みながら思ったのでした。

2006.04.08 (sat)
先週こんな家のオープンハウスに行ってきた。
写真だけ見ると、つい『非人間的空間』という言葉が浮かんでしまうのだが、
実際体験してみると・・・
・・・これが思いのほか悪くない。
建築としてのオモシロさはわざわざ書くまでもなくたいへん興味深いし、
また、空間の居心地という切り口で見ても、
ランダムに配置された無数の窓は、
写真から感じるような気味悪さ・うるささは実際にはほとんど感じなくて、
それぞれの窓から覗く切り取られたシーンは魅力的。
もちろんこれだけ窓があれば、
つまらない景色(隣戸のベランダだったり)もたくさん映っているのだけど、
どうも人間というのは、どうでもいいものは意識下で切り捨て、
見たい景色だけを意識するようにできているみたいで、
ランダムな開口も、たくさんのピクチャウィンドウとして機能している。
そして、「どこから眺めるか」という室内での人の視点の移動によって、
窓から見える景色は常に変化し、そのパターンは無限大になる。
偶然が産み出す無限大。
それはまるで万華鏡のようなピクチャウィンドウ。
よく、住宅を得意とする建築家は、
「一番良い眺めを切り取りました」というピクチャウィンドウを
ついついやってしまいがちだけれども、(僕もそれをやってますが)
時に、意図的に切り取った窓には、
恣意的なやらしさも感じることがある。
そんな、景色を見せられていることの身動きの取れなさや、
建築家の手のひらの上にいるような、キモチワルさは、
この建築の、こと窓についてはあまり感じない。
均質な明るさと、偶然の産み出す景色。
こんなに意図的な空間でありながら、
外の風景はむしろ森で木々のあいだから覗く自然の風景に近い。
この建築を体験したおかげで、あらためて開口というものを考えるきっかけをもらった。
・・・とはいえ、
この『ランダムさ』も実はきっと恣意的なもので、
サイコロを振るように、本当に偶然性を頼りにバラまいた窓であれば、
むしろ偏りが出たりするものだろうと思うが、
この壁面は「見事にランダム」なのである・・・。
けっきょく、建築という行為自体が恣意的であることから逃れられないものなのでしょうな。
作者の存在を感じさせない建築ってムズカシイよなぁ・・・。
そういう意味ではハウスメーカーとか団地の方がよっぽどニュートラルな建築なのかもしれないな。

2006.04.07 (fri)
電話は右耳?左耳?
望遠鏡を覗くときは右目?左目?
このところ僕とカミさんは例の写真を選ぶのに、
一日中スライドフィルムをルーペで覗き込んでいた。
675も撮ってしまったのを100枚程度に絞り込む作業。
微妙なアングルの違い、写りの明るさの違い、「何となく」の違い、etc・・・。
選んでいて200枚くらいまではまぁすんなり絞り込めたのだが、
そこから先が、カミさんと僕とで選ぶアングルが違い意見が合わなくなってきた。
なんでかなぁと思いながら、
ふと、自分が常にルーペを左目に当てて作業していることに気がついた。
試しに右目でルーペを覗いてみると・・・全然わからない。
『目は見えているのに、絵が見えてない』とでも言ったらいいだろうか。
それぞれの写真に差が見いだせない。
本を読んでいる時、目で字面は追っかけていても、アタマに入ってこないあの感じ。
しかし再び左目に当て直して覗くと、
「この2枚で選ぶならこっちかな」とか「あ、ちょっと暗いかな?」とか
「バランスで選ぶならあっちだな」とか、判断ができる。
右目と左目でこんなに違うなんてオモシロいなぁ、と思ってカミさんに訊いてみたら、
カミさんは右目で選んでいた。
へーぇ、違うものなのねぇ。
ちなみに、僕は電話でも左耳。
右耳だとやっぱりアタマに入ってこない。
まさに、右耳から入って脳をスルーして左耳から出て行っちゃう、そんな感じ。
カミさんは、電話も右耳。僕とは正反対。
さて、あなたはどうです?
こういう違いって右脳と左脳の問題ともきっと深い関わりがあるのでしょうな。
男で感覚脳を主とするダンナと、
女で論理脳を主とするカミさん。
この夫婦のもつバランスは、良くも悪くも
きっとその辺りのことが大きく影響しているのだろうという気がします。

2006.04.06 (thu)
「チャンスは一度しかない」
そのことは、写真を撮っているときにとても強く感じる。
竣工写真を撮れる日はどの物件でも限られていて、
その日にちょうど天気が良いとは限らない。
他人の都合と自然の気まぐれに割り込んで撮影させてもらってるのだから贅沢は言えない。
どんな条件でも、東から昇った太陽が西に沈むまでに、
リビングの空間構成からトイレのタオル掛けまで
すべての部屋とすべてのモノを、おさえていかなくてはいけない。
そしてどうせなら、1年なり2年なりの時間とエネルギーを注いで創作した建物なのだから、
すべての場面を一番魅力的な光の瞬間でフィルムに収めてあげたい。
太陽の動きと雲の隙間を睨みながら、光の当るところを見つけて三脚を構える。
太陽と雲と追っかけっこ。メシの暇などない。
午前中にしっかり撮ったはずの壁に、夕方になって偶然色っぽい光が落ちてきたりする。
もちろん、もう一度撮る。
一瞬でも「ぉお」と思ったもの、気持ちが揺れたシーンはとにかく全部撮っておく。
露出を変えて3枚ずつ。
ちょっと三脚をズラしてみる。
(あ、こっちのアングルもけっこうイイ・・・)
で、また3枚。
選ぶのは後からでもできる。
とにかく、撮れるチャンスは今しかない。
きっと、どんなことでもそうなのだろう。
写真に限らずチャンスは一度しかない、そう思った方がいい。
「今はその時ではない」なんて冷静でいるよりも、
「いつか必ず・・・」なんて明るく前向きでいるよりも、
「次でがんばる」なんて素直に反省なんかしているよりも、
今のいま、できることを探して確実にやる。
薄曇りの太陽しか出ていなかったとしても、
その薄曇りさが一番色っぽく見えるアングルをとにかく探す。
もしかしたら2分後には太陽が顔を出すかもしれないのだから、
暗くても撮れるような便所のタオル掛けは、今のうちに撮っておく。
チャンスは一度しかない。
チャンスは一度しかない。
自分に言い聞かせる。
朝の家で撮った写真は675枚。
いま現像されてきたものを見てみると、
あの瞬間の自分のまなざしが確かにそこに現れている。
粘った価値はあった。
(そこさっきも撮ったじゃん・・・)
(現像代いくら掛かると思ってんの?)
(また今度きたときに足りない分を撮り直せばいいじゃん)
終わろうと思えばいつでも終われたのに、真っ暗に日が沈むまでやめられなかった。
たぶん何事もそう、取り組んでいる時は同時に辞める理由を探している。
どんなにオモシロイことも、じつは同時にツライ。
そういう時は、「今やめられない理由」も探す。
(チャンスは一度しかない、チャンスは一度しかない・・・)
口の中でモゴモゴ唱えて、なんとなく退路を断っていく。

2006.04.05 (wed)
800円のラーメン、
2万円のジーパン、
最近ヘンに高いなぁ。
800円あれば、普通にコーヒー付きのランチがゆったり食える。
2万円も出して、「丁寧なボロ加工」したジーパンなんて欲しかぁないなぁ。
ズレてないですかね。

2006.04.04 (tue)
あれ?
「味わう」って言葉は、
「味合わせる」で良いんだっけ?
んーでも、「あじわう」だから
「あじあう」じゃないはず・・・よね。ちがう?
「あじあわせる」?
味、合わせないでしょ。
「あじわわせる」?
『わわ』ってナニ??
口で言ってる分には、問題ない社会生活が送れてるんだけど、
書くとなんかおかしい。
小学校からやり直しか?

2006.04.03 (mon)
ツーバイフォーというやつは、増改築に不向きな構造なのだが、
『月の家』ではかなり思い切った間取りの変更をしている。
南側の1階部分の外壁をゴッソリ取り壊しての増築。
普通こういうことはツーバイフォーでは出来ないことになっている。
だって2階がグシャリと潰れてくるから。
木造でも、柱と梁で出来てる在来工法なら結構どうにでもなるんだけどねぇ。
それで、今回は当然のことながら構造家と打ち合わせをし、
既存の外壁に替わる耐力を、新たに組み込む木造のフレームに保たせるように計算してもらった。
でもじつは一番厄介なのはその施工方法。
「壁を取って→フレームを組み込む」という手順でやってしまったら、
壁を取った時点で支えを失い、フレームを組み込む前に2階の重みで潰れてしまう。
「仮設の支えを挿入しつつ、壁を壊しつつ、本チャンのフレームを挿入する」
という工程でおこなわなくてはいけない。
その細かな作業手順と、安全の確保、
既存の中でおこなうため臨機応変に対応可能なアソビのある収め方、
そんな現実問題のことを監督さん・大工さんとも打ち合わせるのだが、
設計者にとっては構造的に作れりゃ良いってもんじゃなくて、
完成した最終形での空間デザインについても当然こだわりがある。
条件・問題・意匠、
こんがらがった毛糸をひとつひとつ丁寧にほどいていくように、
時間を掛けて解いていく。
・・・・・・と、そんなことをやっていまして、
実はその山場はもう3月に無事済んじゃいました。
いま現在は完成に向けて内装工事が着々と進んでいます。
書く機会を逸してしまっていたので、今更ながら書き留めておきました。

2006.04.02 (sun)
武蔵野市でも桜まつり。
商店街のおっちゃんが焼くトウモロコシ、
PTAのおばちゃんによるヤキソバ、
団地の自治会の婆ちゃんによるヨーヨーすくい、
・・・なんだかな。
テキ屋のいないお祭りなんて、
ぬるいコーラみたい。
なんだろう、あの妙な健全さ。
闇とか毒とかを排除してしまった、漂白された祭り。
お祭りを実行してくれている「地域のボランティア」を否定したくはないけれど、
正直なところ、幼稚園のバザーみたいな手際の悪いシロウトのお祭りは興が醒める。
妖しく猥雑で少し危険な、イキのいいソノスジのかたによるプロのお祭りこそが文化じゃないだろうか。
自分が子を持ち育てていくのに、
この生ぬるい健全さが、キモチワルく気がかりだ。

2006.04.01 (sat)
エイプリル・フール用のウソを半年前に思いついて、密かに楽しみにしていたのだが、
書くチャンスを逸してしまった。
「このところ、またdailyが止まってるな」と何人かから言われていますが、
大きな波を乗り越えた直後、少し休ませてくださいな。
迫り来る「やらなきゃいけないこと」から解放感。
夕飯食べて風呂入ってそのまま寝れるって、いいなぁぁああ。
毎日書いているわけではなく、毎日分載せているというだけの、
多少のズルは厭わない、Dailyです。
今後ともよろしく。

さて、3月のDailyはこちらか、
右のバックナンバーメニューからどうぞ。