Daily・・・日々雑感

2005.07.31 (sun)
現像から帰ってきた写真を見ていたら、数ヶ月前のコドモの写真が出てきた。
「・・・あれ?不細工だなぁ」
コドモはグングン変化する。
毎日見ていると気がつかないけど、顔もどんどん変わっていく。
あの頃していた「僕らが親であるってことを差し引いて見ても、このコの顔はカワイイよね。」
なんていう夫婦の会話のなんと滑稽なこと!
あんなにもカワイイと感じていたのに、今見ると・・・どう、ひいき目に見てもブサイク。
客観的な視点で見ている皆さんには、こう見えてたのね、はははは・・・
ま、いいや。とにかく自分の子はカワイイんだもん♪

2005.07.30 (sat)
「スナガさんにつけるキャッチコピーは、コレだと思うんですよ!
4人全員一致で、スナガさんならコレだよねって。」
って言われたのが、
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「カッコ良く体裁を整えること」だけではゼッタイに終わらない
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このカタカナの『ゼッタイ』っていうのが、
一筋縄じゃいかないぞというロックな精神みたいなものがスナガさんらしい、とのこと。
・・・どうやらワタクシ、トガっている印象があるようです。
社会性をという意味でのパンクな精神は確かにあるけど、それだけじゃないつもりなんですけどね。
人間の内側へ向かう精神性についても、情感豊かにありたいと思ってはいます。
『外はカリカリ、中はふっくら』焼きたての食パンみたいな感じに。
・・・なんて書くと、「キミのはフランスパンの、しかもガーリックトーストだ」と、
誰かに言われそうだな。

2005.07.29 (fri)
久々にコンタクトレンズにした。
素晴らしき世界!
モノが大きく見える、視野が広い!
建築家にはメガネくんが多い。
慢性の寝不足だったり、コンピューターを長時間見つめていたり、
目を酷使する仕事だから、というのもあるが、
「アタマ良さそうに見えるから」という人も、ままいるようだ。
それはお医者さんにも多いようで、僕のかかりつけの先生も、
「メガネしてた方が信用度が増すらしくてさ、イヤだけどしょうがないからしてるんだ」なんて言っていた。
(しかし、精神科医/香山リカのレンズすら入っていないダテメガネの場合は、
妙な想像をかき立てられてしまうので、むしろ逆効果のような気が・・・)
そういうメガネであるが、僕の場合、かなり近視が強いため、
なにかの拍子にフレームが歪んで焦点がちょっとズレただけで、頭痛がしてきたり、
レンズのちょっとしたホコリでも、長時間コンピューターの画面を見つめているとイライラしたりで、
あまりいいことはない。
最近はコドモのメガネへの攻撃も激しくなってきたし、
そろそろまたコンタクトレンズをメインにしようか、と。
アタマ良さそうになんて見えないほうが、色々と身軽だし。

2005.07.28 (thu)
和田さんのブログを受けて。
写真って、撮ったのは『今』なのに、撮った次の瞬間から過去になっていく、
不思議な表現だなぁ。
映像・演劇・文学・音楽・建築は時間を伴う表現だけど、
写真・絵画・彫刻は時間を止める表現だなぁと思って見ている。
(建築と彫刻の違いは・・・またこんど)
ギラギラ・シャキーンな『今』を強調しようとする写真より、
「曲がり角を曲がったら偶然過去に出会って一瞬息を飲んだ」
というような時間と呼吸が一瞬止まってしまったような詩的な写真が好き。
写真は、過去を今に甦らせるタイムマシーンであると同時に、
今さっき撮った写真でも、20年前に撮ったものと同じ時世を持ってしまう感じは、
過去製造機でもあり、僕はどちらかと言うとそちらの方に魅力を感じている。

2005.07.27 (wed)
視力検査で、
「はい、輪の切れている方、どちらだかわかりますか?」
「・・・右っかな?あっ上、かも。・・・んー、わかりません・・・。」
この『わかりません』という言葉、僕はどうしても言いたくないのだ。
日本の義務教育が間違っていたからなのか、単に僕が偏屈なだけなのか、
「わからない」イコール「アタマの出来が悪い」という図式が無意識にある。
だもんだから、たかが視力検査でも「わかりません」という言葉を吐かねばならないのは、
非常に屈辱的なのだ。
でも、よく考えてみたら「見えません」でイイじゃないか。
アタマの善し悪しとは関係なく、悪いのは目なのだ。
だから、視力検査の係の人には、
「輪の切れている方、見えますか?」と問いかけてもらいたい。
そう訊かれれば素直に「見えません」と答えられるのだ。

2005.07.26 (tue)
「接合部の加工に手間がかかるから無理」と言われてしまった。
建売りの物件で、普通につくるとユニットバスの床が脱衣場の床より15cmほど高くなってしまうところを、
その差をギリギリまで小さく5cm程度にするために、
浴室の真下を通過すしている梁を、他の梁より下げてほしいとプレカット工場(骨組み木材の加工工場)に頼んだ。
ところが、加工工場からの返事は、
「他の梁との取合いが複雑になり、機械での加工ができない。
接合部を人がノミで手作業でしなくてはならないため、それはできない。」のだという。
で、カチンときた。
「そこに住む人にとっちゃ、家族四人が毎日2回、そのフロの段差をまたぐことになるんですよ。
それに比べて、あなた達の加工はいっときのことでしょう。
こっちが作ってるのは30年以上人が住み続ける住宅です。
もしどうしても、あなた方工場サイドじゃできないと言うのなら、
現場で大工さんに手加工してもらうよう、工務店にこちらから話を通しておきますが。」
と言うと、渋々「・・・やります」との返事。
『できない』じゃなくて『やりたくない』だけなんだよなぁ。
この手のやりとりは、現場が始まるとしょっちゅうある。
もし「手加工の分、予算オーバーになります」という言い分だったなら、
それは正直にそう言ってくれればいい。それならそれで対応ができるのだから。
我々現代人は分業化されていて、毎日毎日同じような仕事をくり返すのが当たり前になっているけど、
自分が目の前の木を刻んでいるのは何のためか、その目的を忘れてしまっては無意味だ。
目的のわからん仕事をしているんじゃ、本人だって毎日つまらないだろうに。

2005.07.25 (mon)
ma-GUでちっちゃな机を作ってもらった。
これは自分用♪
ウチの仕事部屋は、夏日当たりがよく地獄になる。
エアコンは寝室に1台つけてあり、その冷気を扇風機で廻して全体をまかなっているが、
やはり日当たりのよい窓辺での仕事は、夏はやっぱりキツい。
しかし、こうした賃貸マンションだといつまでもここにいるわけじゃないし・・・と、
設備の増設には慎重になる。
エアコンをもう1台つけると軽く5万円は飛ぶ。
だったらその分のお金で、どこの部屋にいてもでも仕事ができるよう、
コンピューターを無線LANにして、iBook用のちっちゃなテーブルを用意しようということになった。
心地よい風のながれる場所を探して、今日は玄関、あしたは寝室で、と家庭内ジプシー。
机は、ノートパソコンとマウスがピッタリ載るだけの、マナ板くらいの小ささで、
高さは、図面を描くことが多いのでマウスの操作性を考慮して、普通の机より7cmほど高い。
普通の机より、天板がグッと小さくて、
普通の机より、少し高さがある。
このアンバランスが、なんともオモシロい存在感になった。
ウチにとって、はじめての一生モノの家具。
ポンと置いただけで、どうってことのない賃貸マンションの空間がキュッと凛々しく締った。
いい家具にはそういうチカラがある。
いま、僕はヨダレが出ちゃうほどウレシイ♪

2005.07.24 (sun)
最近AirMacを導入したおかげで非常に快適♪
iBookから、LAN・プリンタ・iTunesオーディオ用のケーブルが不要になった。
今日は家族でおさんぽ。
吉祥寺に行く途中のスイーツ屋さんでひと休み。
A.K Laboは喫茶スペースに店員の目がなくて落ち着ける店なので、
以前から時々コーヒー飲みながら仕事させてもらったりしていた。
今日もiBookを持って出ていたので(散歩なのに)、ひと休みしながらdailyでも書こうかと電源入れてみたら、
「ぉお!なんとネットに繋がる!」
このお店内に無線LANの通信環境があるようで、自動的に繋がった。
これでネットでの調べものにも困らない。
線がなくなったおかげで仕事が場所を選ばなくなり、行動範囲が外にまで広がったみたい。
どうせ使うお金なら、もっと早く導入してりゃ良かった。

2005.07.23 (sat)
決して裕福ではないが、米だけは一番いいヤツを買っている。
しかし、それを炊く釜はヘボい。
独身時代から使っている、一人暮らし用のちっちゃなヤツ。
構造が単純なおかげか、全然壊れてくれなくて、買い換えのチャンスを今まで逃してきた。
しかし、「『高い米を、ヘボい釜で炊く』より『安い米でも、イイ釜で炊く』方が、ウマい」
という話をよく耳にする。
でもイイ釜は高価である。
思っていたよりずっと高価。
1年半も踏ん切りがつかなかったのだけど、ハタと気が付いた。
「いつも買ってる米のランクを落として、その差額分で釜が買えるんじゃないのか?」
そんなことになんで一年半も気が付かなかったのか、そちらの方がよっぽど不思議だが、
まあ、人間とはそういうものだ。
んで、計算してみると3年間安い米にすればペイできる。
なんだ、買えるじゃん。
『差額ゼロでできる、今より豊かな生活』
こういうのワタシ好き♪
さーて、念願だった通販生活で絶賛の釜にしようかと思いきや、
その製造元のサンヨーが今月新製品を出したばかりとのことが発覚。
メーカーに問い合わせてみると、「新しい方がずっとウマい!」と自信たっぷり。
理由もしっかり説明され、もうその気になる。
調べてみると、ヨドバシで41,800円(+15%還元)。
まぁそんなもんかと思いつつ、注文ボタンを押す直前に、
念のため価格.comに飛んでみると、
『29,750円』。この差はビックリ。
ま、そんなこんなでもうすぐ、念願だったほぼ最高級炊飯器がやってきます。
はたして、もっと米のウマい生活は実現するのか?
レポートは後日。

2005.07.22 (fri)
ちゃんとした写真を撮りたい時は、ペンタックスのESというカメラを使っている。
30年以上前に僕の父が買って、いつからかタンスに入りっぱなしになってたカメラ。
このカメラで撮るたび「一眼レフって、ただ撮ってるだけなのにイイ味でるよなぁ・・・」
と、しみじみ感心していたのだが、じつはそうではないことが判明。
写真家の和田さんにいわく、
あの映りかたはペンタックス特有の味で、
例えばcanonなんかではそこにある風景がただ正直に写るだけの写真になるのだという。
「建築作品を自分でキチッと写真に残しておきたいのなら、
今どきのカメラはみんな高性能だし、キャノンなら安いからEOS kissとかでも1台持ってると便利だよ」とのこと。
でも、なんかそんな話を聞くと、なおさらこのペンタックス1台でムリヤリにでも通したくなっちゃうなぁ。
ただシャッター押してるだけなのに勝手にイイ味出してくれるんだもの。
オヤジのタンスに入りっぱなしになってたので、たまたま使ってるだけのカメラが、
一生末永く使っていきたいお気に入りの逸品になってしまった。
もうちょっと大事に扱ってやろうっと。

2005.07.21 (thu)
「デザインで、人の心を変えらる。
デザインには世の中を変える力がある。」
そう信じて疑わない人たちがいる。
クリエイターに憧れてたわけではなく、『表現』を自分のなすべきこととして、
音楽、イラストレーション、プロダクト、広告、建築など、それぞれの分野で(又は分野を飛び越えて)活動する作家。
結果として、クリエイターという呼ばれかたをしているけど、
クソミソ一緒くたの自称クリエイター達とは違うのは、
強い意志をもち、いつも信念のために戦っているということ。
だから作家。
なんだか最近世の中に、デザイナーやらクリエイターがやたらに多い。
彼らは何をクリエイト(創造)しているだろうか。
作家達が産み出した魂の表現を、パクって混ぜ合わせ組み合わせ、
それらしくテキトーにまとめあげてシロウトをごまかす。
器用な自称クリエイター達がこんなにも増えてしまったのは、食うことに困らない、進化した社会だからだろうか?
僕は、売れようが売れまいが作家としてやっていく。
サバイバルデザインの仕事は、『人が人らしく生きるため』の提案。
人間らしい生きかたの豊かさを、探して見つけて表現する。
日本が飢餓に苦しんでも、戦争が始まっても、その時々で人間が本当に必要としているものを提案をしていく仕事。
だから誰が何と言おうと、僕の活動は一次産業なのだ。

2005.07.20 (wed)
いつの間にか日付が変わっていて、
友人から「誕生日おめでとう」というメールが届き、
もう20代が終わっていたことに気が付いた。
30歳になりました。
・・・って自覚した途端、自分でも驚くくらい落ち込んだ。
なんか、戻れないところへ来ちゃったんだなぁ。
今日からはもう若者とは見てもらえなくて、
これから先はどんどんオジサンになっていく一方かぁ・・・
29と30には、たかーいたかーい壁があるのだね・・・。
たとえば27歳と28歳には、ほとんど大した違いはないような気がするけど、
(じっさい、27歳の時に28だと言っていたものな。
わざとじゃなくて、自分で本当に間違ってて。しかも半年以上気が付かなかった)
今日のこの瞬間は、着実に一段一段登ってきた階段を、担がれて一気に10段分登らされてしまったような、
「えっ?ぇえ??」な感じがある。
しかもその重要な境目の瞬間を、自覚なくいつの間にか超えてしまっていた未練・・・。
これから30を迎えるという皆さん、この境目には充分注意を払って、覚悟を決めてまたいだ方がいいですよ。
今の僕の心境は、野球に例えるなら、
監督のサインに目を凝らしてたら、隠し球であっさりアウトになっちゃった、っていうような、
えも言われぬ納得いかない感じがしてしまいます。
・・・30って、うそだろぉ・・・

2005.07.19 (tue)
なんか、こんなことが思い浮かんだ。
『「想像できない」ってことは、「発見できる(かも)」ということ』なんじゃないかと。
ふだん、想像力がない=能力のないヤツ、という感じがしていたけれど、
むしろ、想像力が半端にあったりするおかげで、想像だけで満足してしまって実行しないなんてこともある。
何がどうなるか全く想像もつかない、自分が何を分っていないのかすらもわからない、
それくらいポカーンな状況のまま、物事に飛び込んでみると、
ものすごい沢山の、ものすごい濃いことに出会えたりする。
富士登山で、準備しようにも何を準備したら良いのやら、ネットで調べてみてもポカーンだったけれど、
でも、行ってみたら、
「うわっ、どこにも土がない。もしかしてコレぜんぶ溶岩?!」
「赤い、地面が一面まっ赤、なんで?なんで?」
「すげー!星ってこんなにぶち撒けたみたいにウジャーッとたくさんあったんだぁ!」
「寒っ!、こりゃ動いてないとホントに凍えちゃうぞ」
「うめー、カップヌードルうめー!、オレ今日まで生きててホントよかったぁ!」
「御来光ってこんなにも幻想的なの??、ふつうの日の出とはゼーンゼン違う、こりゃぁ別モノだわぁ・・・」
「なんだ、下山が一番しんどいじゃねーか、くそぉぉ・・・」
もしも、下調べでそれなりに想像がついちゃってたら、
良くも悪くもこのカラダにくる感動は、無かったんだろうな。
「ナニガワカラナイカモ、ワカリマセン・・・」というくらいのポカーンな、貧困な想像力だったからこそ、
こんなにも発見がたくさんあって、感動して帰って来れた。
10年くらい前に、赤瀬川源平の『老人力』で
「歳をとるというのは、ボケるという新しい能力を獲得していくことなのだ」
という逆転の発想がウケてたけど、それと同じ。
『ポカーン』もなかなかイイ。人生がグッと刺激的になる。

2005.07.18 (mon)
登ったり下ったり曲がりくねったり遠回りしたり、
効率なんか最悪に悪い道程でも、
自然の地形の中から歩けそうなところを見つけて、
それに沿ってトボトボ歩くしかない。
人間と自然の関係なんて、ホントはそういう力関係にある。
「下って登るような道なら、平らに埋めてちまえばいいのに」
火口の周りを歩きながら、というより歩かされながら、
そんな思いが頭をよぎるけれど、人間の思うようにはいかない。
街に木を植えようとか、土地をヒナ段に造成しようとか、
ふだん勝手にコントロールできると思い込んでいるようなことは、
まったくバカげた思い上がり。
木は生えそうなところに勝手に生え、そこある地形に従って人は歩く。
人間は、地球の隙間を縫うように、コソコソと生きてくしかないのだ。
人は自然に初めっから負けている。ゼンゼン負けてる。
この圧倒的な力関係は、この先もずっと変わらないことなのだと、
自分で歩くより他ないこの火山のてっぺんで、
人間の程度をイヤというほど思い知った。

2005.07.17 (sun)
目が覚めたら、カラダ・・・悪くない。
急いでリュックに荷物を詰めて、
その後、慌ただしく図面を描く。
集合時間に間に合うために、書き上げなければいけないタイムリミット9:30。
あと2時間。ホントにできるのか?
必要最小限の情報だけをマッハで図面に落とし込む。
終わった!9:34。
とりあえず行ってきます!

2005.07.16 (sat)
登山靴を履きならすために歩いて吉祥寺へ。
明日の富士山登山のために、まだたりない装備を買いながら、
強烈な日射の中を2時間ほどグルグル歩いていたら、
途中で吐き気がおそってきた。
なんとか家に帰り着くも、ぐったりバテてダウン・・・。
今日中に木材の加工工場に図面を描いて送ってしまわなければいけないのに、
まだ手を付けていない。
でももうカラダが限界。
頭痛がひどい、吐き気がする、食事は喉を通らない、最悪の体調。
明日からの富士山はキャンセルだなこりゃ・・・
準備で頑張ったがために、カラダの具合が悪くなった。
でも準備ができてなかったら、どのみち参加は不可能だった。
ムリを承知でムチを打つ、こういう生活には必ずしっぺ返しが来る。
(※以上は、後日に書いたもの。この日はホントにダウンしてて、
コンピューターの前に座って文章なんか書いてる余裕は皆無でした。)

2005.07.15 (fri)
午後から富士登山のための買い物へ。
「いま履いてるこのウォーキングシューズで登れませんかね?」
「よっぽど脚力に自信があるなら、ダメとは言わないけど・・・。
運動不足?デスクワーク?在宅?
じゃ、ダメだ。靴下脱いで足見せてごらん。
あー、こりゃ運動してないなぁ・・・こんなヒョロっとした足で登る気なの?
いつ?あさって!?あんた無謀だねぇ。
しょうがないねぇ・・・、じゃせめて靴ズレ覚悟でこの靴買ってきな。
普通は一週間掛けて履き慣らすんだけどね・・・
もう店から履いてっちゃえ。
気をつけて行ってくるんだよ。
それと、くれぐれも富士山をナメるんじゃないよ。」
この調子で、すべての装備について予想以上の散財。
『坂道を上にあがる』それだけのことが、思っていたより大変そうであることを知る。

2005.07.14 (thu)
居場所の家、自分で撮った写真があがってきた。
露出だとか露光だとか、写真の技量には自信はないけど、
表現したい建築の気配だけは、誰よりもわかっているつもりである。
出来上がってきた150枚の写真を見ていると、やっぱり技量はイマイチだが、
まぁまぁ使えそうな写真も多い。
ホッとひと安心。
この、写真が出来上がってくる待ちきれない気持って、筆舌しがたいほどの待ち遠しさだねぇ。
新宿御苑の堀内カラーで出来上がりを受け取って、
ウチに着くまで待ちきれず、帰宅ラッシュの丸の内線の車内でも構わずフィルムをビロビロ広げてニヤニヤ。
こういう性格は、オトナになっても変わらんなぁ。
むかし、ジイちゃんバアちゃんに連れられて行った千葉そごうで、買ってもらったプラモデルが、
んもう嬉しくって嬉しくって、待ちきれずに帰りの電車の中で部品をバラしてた時のこと、
うーん、思い出すなぁ。

2005.07.13 (wed)
定期的に通っているいつもの病院で、
「最近忙しすぎたせいか、痔が復活して昨日今日は血がドバー!って・・・」
って先生に話していたら、横に立っていた若い看護婦さんと目が合った。
彼女はスッと目をそらし、さりげなくバックヤードの方へ立ち去った。
おいちょっと待て!
オレは恥ずかしくないぞ!
なんだその慣れた風な立ち去りかた、俺は嫌いだ。
痔ごときを恥ずかしがるような、ケツな穴の小さい野郎と一緒にしないでくれ。
ベツにそんな話を彼女にわざわざ聞かせたい訳じゃぁないけれど、
でもなんか、うわぁ、スッゲー不本意だなぁ・・・。

2005.07.12 (tue)




久我山に2棟の建売りを計画している。
建売りという性質上、予算がない。
工事費も限られているし、設計料もグンと低い。
お金が安いということは、人の手間が掛けられないということ。
設計に時間が割けなし、施工に細かい注文を出せない。
それなのに「いい作品をつくろう」と、この企画を持ってきてくれた建設会社も僕も言っている。
自分のプライベートな時間まで犠牲にして、バカかもしれない。
それでもなんとか社会的に意義のある提案が出来ないかと考えていて思いついたのが、
コロニアルのモザイク葺きであった。
いまの住宅街は、街並が無表情で殺伐としている。
個人の住まいがハウスメーカーと、新建材という既製の工業製品とによってつくられた結果、
こんなにも殺風景な街並が出来上がってしまった。
効率、合理化、企業、利潤、『安い』はすべてに勝るという社会の価値観が作ってしまった街並。
今からでも、これを活性化させ、もっと明るく楽しい雰囲気の街並をつくれないだろうか?
そのきっかけとして、
コロニアルという、住宅建築史上もっともポピュラーな材料を使いながら、
それを色とりどりに混ぜて葺くことで、明るい街並を取り戻す、ということを考えた。
様々な色を組み合わせモザイクに葺くことは、色合いに無限の可能性ができる。
「ウチは茶系のモザイク」
「こっちはグリーンの系のモザイク」
「なんだかわからないけどグチャグチャにモザイク」
「じゃウチはシマシマ」
そんなふうに、規格の決まった既製品を使いながらも、『自分だけの家』が実現できる。
コロニアルのモザイク葺きは、
「廉価な素材」であり、「耐候性があり、基材が劣化しない」という高い性能をもち、
「部分補修が可能」なメンテナンス性を備え、しかも「今まで通りの建売り大工の技術でできる」簡易な工法。
いいと思うんだけどな。
僕は今のこの社会に生きていて、けっして不幸だとは思わないけれど、
このままで良いとは、とても思えない。
子供は病院で産まれ、小学校から大学まで画一的な教育を受け、
誰にでもできる仕事を文句を言わず効率よくこなす人間が喜ばれ、
死ぬ時には病院のベッドから逃れることすら許してもらえない・・・
システムに乗っからない人生を選択するのが難しい、なんだか息苦しい社会。
衣類もテーブルも家電も、すべて工場でつくられた既製のもの。
個性を表現できる余地は、ケータイのストラップにしかない。
そんな『進んだ社会』のなかで、
建築だけが、現場施工という人の手による手作業が許されている。
家をトレーラーに積んできて、クレーンでゴンと降ろして、ハイ終わり。
という程には、まだ進化していない。
それぞれひとつひとつは工場製の部品だけれども、
それを現場で組上げるのは職人さんたち人の手。
建築だけが幸いにも遅れていることを利用して、
アイデアひとつで世の中に風穴を開けられないか、という試みだった。
だったのであるが、残念だが今回の建売りではコロニアルのモザイク葺きは、
事情により断念せざる得なくなった。
とてもとても残念で、ホントは今から自分の家を建ててそこでサッサと実現させてしまいたいくらい、
愛おしいアイデアなのだが。
もし「やってみたい」というかた、また業者のかた、
いらっしゃいましたら、ぜひぜひご連絡を。
すっごいカワイイ家ができますよ!

2005.07.11 (mon)
富士山を登るために、日頃の運動不足解消のため、
毎日近所のプールに通うことにしたわけである。
しかし、20分泳ぐともう限界。
2時間有効のプール券が空しい。
受付のおねえさんが薄笑いを浮かべる。
フロより短い水泳時間。
しかしそれすらも、仕事の忙しさを言い訳に4日しか続かなかった。
ダメ人間。

2005.07.10 (sun)
水泳にはヘンな快感がある。
水に入った瞬間カラダを突き抜けていく「ウヒョッ!」という感じ。
水にカラダを預けて泳ぎはじめたときの、肌で水をすり抜けていくあの感じ。
プールの底に映った光の揺らめき。
潜ったときの無音の世界。
すべてが、この世のモノではない感じがする。
他のスポーツにはない、性的な感覚がある気がする。
コンクリートで囲われた水たまりの中で、
行ったり来たり、行ったり来たり、なんと不自由で地味な運動だろうと思うけど、
緑の公園をランニングするよりずっとずっと気持がいい。
最近、ちょくちょく泳ぎにいくようになったので、カミさんにそんな話をしてみたら、
まったく逆だと言われた。
「水の中ほど心理的な不安と、肉体的な圧迫感を感じる、不快な場はない」と。
ふーん。人それぞれなんだなぁ。

2005.07.09 (sat)
「今までにない建物をつくりましょう」という提案が、
デザイン屋の自己満足だと思われてしまうのが一番残念。
「世の中をゆたかにするための提案」それをする設計屋のことを、
建築家と呼ぶのだと僕は思っている。
だからこそ建築家は、自分がつくった建築を他人の住む家でも「作品」と言い、
それをわざわざ「発表」なんてする。
ところがそれらを、『ただの自己満足の表現』だと受け取っている人の多いことにガックリくる。
自分が善人だとはサラサラ思わないが、
今の世の中が抱えている悪い部分を、少しでも変えていくきっかけをつくれないかと思いながら、
こんなに割に合わない仕事をしているのだが、ふつうの人でそれを理解してくれる人は少ない。
それでも、幸いなことに僕に仕事を依頼してくれるお客さんには『公に供すという意識』を、
自然に持っておられる方が多いので、割と救われている方である。
仕事というのは「依頼者に→応える」のがシンプルなカタチなのだろうけど、
それだけになってしまう仕事には、残念ながらまったく魅力を感じない。
おごりと言われるかもしれないが、
言われたことをやるだけの、金の出どころに忠実に従うだけで、誰がやっても同じ結果になる仕事なら、
僕がやらんでもいいんじゃない?と思う。(ま、食ってくために手を出しちゃうこともあるけど)
やりがいのある仕事って「それが『他の』誰かのためになる」って仕事なんじゃないかな。
先日の建築専門誌への図面提供では、わざわざそのためだけに図面を新たに描き直した。
自分が時間を掛けて工夫に工夫を重ねて編み出した床ハッチの仕組みを公開してしまうのに、
一円の金も受け取っていない。提供している他の建築家達もきっとそう。
また、地域活動でやってる地域通貨の立ち上げも、その打合せに何日も何日も割いてるが、
そこに個人的な利益はない。
必要とする誰かの役に立ちそうだ、というだけのことで、メンバー全員がボランティア。
「よりよい世の中をつくっていくための、小さなきっかけを作り」それが『提案』。
クライアントの利益とは全く関係のないところでの、世の中へ向けての発信。
建築の設計において、建築家の自己満足の表現ために、クライアントがいるわけではない。それは確かだ。
しかし、クライアントの自己満足の実現のために、建築家がいるのでもない。
建築家はただの設計屋とは違う。
建築家はいつも「世の中がゆたかになる」そのための提案を作品に埋め込もうとしている。

2005.07.08 (fri)
彫刻家のミケランジェロは「わたしは石の中から人を救い出しているのだ」と言った。
そんなこたぁ、常識から考えたらウソに決まってる。
石の中に人はいない。
ミケランジェロが勝手に見ている妄想だ。
しかし、それと同じようなことは写真家の撮った写真にも言える。
森に浮かぶ家でもそうだったのだが、
実際にはあんな風景は存在しない。
あのときは工事が終わったばかりの引き渡し前の現場で、
ダイニングセットを置いてみただけの簡素な空間だった。
それを、写真家が撮ると、
朝陽が昇り始めたばかり、木漏れ日の射すダイニング、
まだ寝室で眠る主人を、静かに待っているテーブルさんと椅子さん達、
という、そこには確実になかった雰囲気が勝手に映し出されてしまう。
写真家も彫刻家も、
「本当はそこに存在しないものを、勝手に『あると思い込んで』産み出してしまう」
無いモノを見るチカラ、それをクリエイティブと呼ぶのだろうな。

2005.07.07 (thu)
居場所の家オープンハウスで、
「実際に見に来て良かった」という言葉を、幾人のかたからいただいた。
漆喰の壁も、無垢の木の床も、和紙の柔らかな光も、
それらを微調整しながらつくった空間のバランスも、
話でいくら聞いても、文字でどれだけ読んでも、写真を眺めてみても、
結局、体験しないことには実はわからないもの。
それを専門でやってる設計屋だってそう。
作品集で穴が開くほど見ていた名建築、実際に見にいってみたら印象が全く違って・・・
なんてことはぜんぜん珍しくない。
しかし、そうではあっても建築を伝える手段としては、どうしても写真に頼らざるを得ない。
写真には、本来ある音も風も匂いも写ってくれない。
『建築は気配だ』と書いたばかりなのに、それがひとつも伝えられない写真で、それでも説明するしかない。
だから写真ではウソをつく。
明るい空間を暗く撮ったり、広く見えるように撮ったり、本当はそこにあった家具をどけたり。
実際その空間で過ごしてみたときの「なんとなーく、居心地いいなぁ・・・」という感じを、
「居心地良さそうだなぁ」と思わせる写真に変換する
写真は事実に忠実ではないけれど、その時つくウソ(フィクション)の方向性さえ間違っていなければ、
むしろ正しい伝達方法となる。
今日また足りないカットを自分で撮影してきた。
今回は太陽が味方してくれたので、けっこういい写真が撮れているんじゃないかな。

2005.07.06 (wed)
誰でもそうだと思うけど、
自分の後ろに誰かがジッと立っていたら、
目で見えてなくても、気が付くだろう。
後ろに立っているのが、カミさんなのかコドモなのか友人なのか赤の他人なのか、
それぐらいの区別もだいたいできるだろう。
僕は建築空間を説明する時に『空気感』という言葉をよく使っていた。
街の中での建築の建ちかたには、『佇まい』という言葉を使っていた。
どちらも、それらを絵に描いても写真にとっても、実際の感じとは違ってしまう。
視覚情報で伝えることができないということは、
どうやら、建築というのは目で見てわかるものではなく、
五感のどこか別の部分で感じていることになる。
それは何だろうなぁと、なんとなく考えていたのだが、それがさっきわかった!
たぶん建築を感じているのは『耳と皮膚』なのだ。
もしヘッドフォンをつけて宇宙服みたいな全身を覆う服を着て、その建築の前に立ってみたら、
素の建築の佇まいを感じることはできないだろう。
建築の中に入ってみても、その空間と空気感を感じることはできないだろう。
「耳と皮膚」というのは、最初に書いた「誰かが後ろに立ってる感じ」を強く感じ取ってる器官でもある。
つまり、『気配』を感じ取る器官。
なるほど、建築というのは気配のことなんだ。
さっき、この結論に辿り着いた瞬間、自分の中ですべてが解決した。
ヴァチカンのサンピエトロ寺院の荘厳さとも、
小堀遠州の八窓の茶室にあった小宇宙・時空を超えた空間も、
写真や映像では全く伝わらない。
あれらの建築の素晴らしさも、視覚情報ではなくて気配だから、耳と皮膚で感じなければ到底わからない。
むしろ、その場に身を置いていたら目なんか閉じていたって、ちゃんとわかる。
じつは、今設計している住宅で、お客さんから完成予想図を出してほしいと頼まれていて、
何度も何度も絵を描き直して、自分のイメージする建築をそこに写し取ろうとしているのだが、
それがうまくできなくて、困っていた。
そりゃそうなのだ。気配は絵に描けない。
ハナから、存在感を正しく絵で伝えるのは、無理なことだったのだ。
今までいつもプレゼンテーションは模型と現ブツ素材の切れっ端でおこなってきたが、
それはそれで正しかった。
つまりは、建築を伝える方法は「これで想像してください」というより他にないのだ。

2005.07.05 (tue)
はじめて仕事の依頼をお断わりした。
先日の屋根の座談会を取りまとめていた方からの依頼で、
こんどはキッチンに関する提案をしてくれないか、との事だったのだけど、
締め切りが8月上旬まで。
「あなたにお願いしたい」という特命の依頼で、
『どうしても』な感じはビンビン痛いほどに伝わってきたのだけど、
スミマセン・・・期日的にどうにも都合がつかないのです。
自分の時間をどう削っても、もうすでにイッパイイッパイだし、
いま抱えている他の仕事も、どうしてもズラせないし、
仲間に手伝ってもらって捌こうにも、まだ人の使い方に慣れていないので危険だし・・・
せっかく「ぜひ、あなたに」って言ってくれる仕事は、どんなことをしてでもやりたかったのだけれど、
どうにも、お断わりするしかなかった。
ヒマで下請け仕事ばっかりやってた頃は、
「断わらなきゃいけないほど仕事がいっぱい来てくれるなんて、幸せだろうなぁ」と思っていたけど、
実際にそうなってみると、断わるのってツライ。
結局、『私は期待に応えられない人間です』ってことなんだもの。
ほーんんんっとにツライ・・・。

2005.07.04 (mon)
ここにもたびたび登場していました佐倉のリフォーム物件ですが、
かんたんなオープンハウスをやらせていただくことになりました。
現場が千葉県の佐倉市というところで、場所が東京からはけっこう離れていて、
小規模なリフォームということもあり、あまり大々的にはしませんが、
もし見学ご希望のかたがいらっしゃいましたらこちらまで、
「佐倉のオープンハウス希望」と書いてメールでご連絡ください。
折り返し詳細をご案内させていただきます。
日程はもうすぐそこで、7月7日(木)14:00から17:00、
場所は佐倉駅から歩いて5分くらいのところです。
今年完成の物件は、あと2・3東京都内のがありまして、
秋と冬にまたオープンハウスができるかと思います。
今年はなんだか大忙しです。
ちなみに、佐倉のリフォームは『居場所の家』と名付けました。

2005.07.03 (sun)
あ、選挙忘れてた。
夕方までは「行かなきゃ」って覚えていたのに。
僕とカミさんが投票しなくたって、結果は何も変わりゃしないのだけど、
なんか残念だなぁ。
意思を表明する機会をみすみす逃してしまった感じでな・・・。
ま、何も変わりゃしないんだけど。

2005.07.02 (sat)
写真は魔術だ。
色の調子をなおして全体に暗めに焼くだけで、
まったく同じカットがグッと印象が変わった。
あーでもない、こーでもないと、
ほとんど無限とも言える色の配合を、
焼いては調整し、焼いては調整、何度も何度もくり返す。
魔術は人の手仕事。地味で手の掛かる根性労働。
終電間際の和田さんのスタジオで、やっと納得の一枚にたどりついた。

2005.07.01 (fri)
『なくてもいいものは、ない方が良い』
という言葉を僕はよく使う。
『Less is more』や『シンプル・イズ・ベスト』とは似ているようでも違います。
「+α」の要素を徹底的に排除していくデザイン的合理の追求には、
僕は興味ナシ。
ホクロがあるからチャーミングに見える女性がいるように、
あった方が良い無駄(オマケ?)はあると思っている。
「あった方がいいもの」→「なくてもいいもの」→「あってもいいもの」→「ない方がいいもの」
段階で書くとこうなるのかな。
今日、痛い失敗をしていたことに気が付いた。
「あってもいいものなら、それでもいい」という考えが、いつの間にか自分の中に湧いていた。
その理由は『相手を尊重したい』ということだったのだけれど、
それがモノ作りとしては結局、妥協になってしまっていた。
もう一度『なくてもいいものは、ない方が良い』と肝に命じて、この失敗をとり返しに掛かろうと思う。

さて、5月のDailyはこちらか、
右のバックナンバーメニューからどうぞ。